見出し画像

【本】山田ルイ53世「ヒキコモリ漂流記 完全版」感想・レビュー・解説

本書は、最初から最後まで実に面白い作品だが、一番良いことは最後の最後に書いてある。

【殆どの人間は、ナンバーワンでもオンリーワンでもない。
本当は、何も取柄が無い人間だっている。
無駄や失敗に塗れた日々を過ごす人間も少なくない。
そんな人間が、ただ生きていても、責められることがない社会…それこそが正常だと置くは思うのだ】

これは本当にその通りだなと思う。
もちろんこれは、自分への非難も含んでいるわけだけど。

僕は、比較的広く他人を許容する人間だ、と自分では思っているのだけど、それでもやはり、許容しがたい人というのは存在する。もちろん、そういう人であっても、大抵の場合は、「僕の目の前にいさえしなければ別に何をしていても構わない」と感じる。ただ、本当に時々、「こいつマジでいなくなって欲しい」「自分の視界からじゃなくて、この世から消えて欲しい」と感じるタイプの人間もいる。

本当は、そういう人も許容して、ただ生きていても責められることがない社会が良いのだと思う。それでも、そういう社会を切に望んでいる僕自身さえも、そういう社会の成員としてふさわしいとは言えない感覚を抱いている。難しいものだ、と思う。

僕自身も、引きこもっていた時期がある。

山田ルイ53世は6年間だったようだ。世間には、もっと長く引きこもっている人もいるだろう。それらに比べれば、僕は短い。二回に分けて、合計で半年、という感じだ。

しかし、その半年間は、本当に辛かった。

大学二年まで、小中高大学と成績はとても良かった。まあ頑張って勉強したからなぁ。そして、大学三年の春から授業に一切出ず、家からほとんど出ない生活をするようになった。理由は色々あるが、まあそれは置いておこう。とにかく僕は、優等生から一転、立派な引きこもりになった。

その当時の生活を、もう正確には思い出せないのだけど、大体こんな感じだったと思う。

昼夜逆転の生活をしていた記憶はない。早いとは言えない時間だったかもしれないけど、ちゃんと夜に寝て、昼に近かったかもしれないけど、午前中には起きていたと思う。そして、起きている間はひたすらテレビを見ていた。ずーっとだ。当時は、既に本をたくさん読んでいる時期だった。でも、引きこもっている間に本を読んだような記憶がない。理由ははっきりしている。読めるような精神状態じゃなかったのだ。とにかく頭の中はずっとぐるぐるしていた。問題が何なのかもはっきりと分からないまま、今すぐに答えを出さなければならないような焦燥感にずっと駆られていた。考えなければならない問題はたくさんあった。大学はどうするのか。ここにずっと住み続けられるのか(実家ではなく一人暮らしだった)。働けるのか。友人たちとはもう会えないだろうか…などなど。でも、考えると言っても、まともな思考能力は残っていなくて、考えれば考えるほど悪い方向に思考が進む。だから考えたくない。でも考えずにはいられない。そんな風に頭がぐるぐるしていたから、とても本なんか読んでいる場合じゃなかった。それで、一日中ずっとテレビを見ていた。

僕が住んでいたところは、建物内に食堂や大浴場があるようなところだった。食堂は専用のカードで支払いで、その請求は親に行ったから、とりあえず手持ちのお金がほとんどなくても生活は出来たのだと思う。親は、僕が大学に行かなくなったということを知ったが、山田ルイ53世の両親と同様、すぐに大学に復帰するだろうと考えて、学費も生活費も出してくれていた。山田ルイ53世と同様、僕もそれまでずっと優等生で通してきていたから、ここでダメになるはずがないと期待したかっただろうし、これまでワガママらしいワガママを言わなかったんだからここはなんとか踏ん張ってあげよう、みたいに思ってくれていたかもしれない。


実際どう思っていたのか、聞いたことはないが、しかしどう思っていたにせよ、それらはすべて間違っていただろう。

【中学受験はある日突然、ただの思いつきで僕が勝手にやると言いだし、勝手に勉強して、勝手に合格しただけのことだったし、入学後の学校での成績や生活態度もすこぶる良かった。そんなわけで親は安心しきっていたのである。僕のこと、その現状をまったく把握していなかった。
それが彼らにとっては仇となった。もっと手のかかる子供なら、何かにつけ知る機会も多かっただろうに…。】

これも、物凄く分かるな、と思った。僕も、ずっと優等生で通していたから、親からすれば、僕が突然大学を辞め、引きこもるようになったことを「何かの間違いだ」ぐらいに思っていたことだろう。ただ、僕の感覚からすると違う。僕は既に、中学生ぐらいの頃から、後に引きこもることになる要素をずっと隠し続けていたのだ。僕がもっと普段から問題を起こすような子供なら、親も注意深く観察したかもしれないけど、僕も山田ルイ53世と同じく、超がつくぐらいの優等生っぷりで通していたから、親も安心しきっていたんだろう、と思う。僕からすれば、ずっとカウントダウンの中を生きていたようなものだったのだけど、まあ気づくわけもない。

引きこもっている時は、本当に何をしていたかほぼ記憶がない。たぶん、テレビを見る以外のことを何もしていなかったんじゃないかと思う。それぐらい、気力がなかった。動き出そうという気力もなく、とはいえこのままで良いはずもなく、だからってどうもしたくないという堂々巡りの中で、ただただ脳みそが溶けるようなレベルでテレビを見続けいただけだった。


山田ルイ53世が引きこもりを脱するきっかけになったのが、成人式だったという。かつては神童だった自分が、既に周りから置いていかれているのに、成人になってしまえば、その差を埋めることはほぼ不可能になる――そんな焦燥感から、彼は無理やり引きこもりを脱することにしたという。

僕のきっかは、実家に強制送還されたことだった。さすがに引きこもったまま一人暮らしさせるわけにもいかず、僕は実家に帰らざるを得なくなった。しかし僕は子供の頃からずっと、実家が嫌で嫌で仕方がなかった。そして、結果的にはそれが良かった。もし僕にとって実家が居心地の良い場所であったら、そのまま社会に出られないままだっただろう。僕は、実家からどうにか抜け出したくて、それで、ずっと避け続けてきた「働く」という選択肢について真剣に考えるようになったのだ。

著者は取材などで引きこもりについて聞かれる度に、ある違和感を覚えていたという。それが、取材の終わりに放たれる、「その6年間があったから、今の山田さんがいるんですよね?」という類の質問だ。彼は、場の空気が悪くなることを承知で、「あの6年は完全に無駄でしたね」と答えるのだと言う。

そうだなぁ、僕も、引きこもっている時間そのものは、無駄だったな、と思う。僕は、「大学を辞めた」ということは、今でも最大級に最良の選択だと考えているのだけど、それに続く引きこもっていた時期は、はっきり言って無駄だなと思う。とはいえ、結局実家に強制送還されるまでは動けなかっただろうから、すべてが繋がっていると言えるのだろうけど、それでも、僅か半年間といえ、あんなしんどい時期を過ごす必要はなかったと思う。うん、はっきり言って無駄だったな。

でも、「引きこもっている」ということが、社会に生きる人間としてマイナスにならない世の中であって欲しいと思っている。人を負傷させたり、金品を盗んだりというような、積極的に他人に迷惑を掛けるような行為はダメだと思うけど、弱かったり頑張れなかったり苦しかったりして、普通の人が普通に出来ることが普通には出来ない人、というのがやっぱりいるわけです。そういう人たちも、消極的には周りに迷惑を掛けるだろうけど、それが受け入れてもらえる世の中というか、他意なく無視してくれるような世の中であってほしい、と僕も思ったりします。

内容に入ろうと思います。
本書の著者は、お笑い芸人「髭男爵」の太ってる方。彼は、小学生の頃からなかなかの神童だったようだ。勉強もスポーツも出来、地元の名門中学に入学を果たした。国語の授業で出された詩の課題(実は優秀作は新聞に掲載される)で、姑息にも新聞に載るような作品を必死で考えて載ったり、学校の面々を「主役」「脇役」「エキストラ」などに区分けして見ていたなど、本人が「嫌な人間だった」「救いようがない」「なかなかのクズ」と評するエピソードも多々登場するが、本当にそれぐらい、周りから頭一つ抜けた存在だったようだ。
しかし、うんこをもらしてしまったことをきっかけにして、彼は引きこもりになった。そう、うんこをもらしたことは、あくまでもきっかけに過ぎなかった。ただそれだけのことなら、きっと彼は学校に行き続けることが出来ただろう。しかし、あらゆる意味で、彼は限界だった。そして、夏休み明け、いつもなら夏休みに入って一週間程度で終わらせる夏休みの宿題を一切やっていないという理由で学校をサボり、そこから6年間の長きにわたり、引きこもることになる。

本書では、引きこもりを脱してから芸人になるまでの軌跡も描かれていて、まさに「山田ルイ53世が出来るまで」という感じの作品である。

面白かったなぁ。芸人だから、という面もあるかもしれないけど、文章が非常に面白い。ただ面白いだけじゃなくて、なんというか教養に裏打ちされている感じがする。伝わるか分からないけど、【あの先生の太鼓判には朱肉がついていなかったようだが】なんていう、知識とユーモアが入り混じったような表現が結構随所にあって、さすが子供の頃から大人向けの難しい本を読んでいただけのことはある、という感じだ。

そもそも、引きこもることになった初日の朝の描写がこうだ。

【実際、その時の僕は「なんか俺、今、カフカっぽいな」などと、チェコの文豪の作品と自分を重ね合わせ、その類似性に、意味不明の高揚感を覚え、さらにはこのたぬき寝入りになんらかの「正当性」があるのではないかと文豪の権威を悪用してそう思い込もうとしていた】

この時、14歳である。僕なんか、未だにカフカの「変身」を読んだことがないというのに(笑)

文章だけではなく、著者の、「書きにくい話も臆せず書く」という姿勢も良いなと思う。その最たるものが、既に少し触れたけど、「当時の自分がどんな風に感じていたのか」を露悪的に描くようなスタンスだ。例えばこんな感じ。

【我が家は、学校や、彼らの自宅からはかなり遠い。にもかかわらず、わざわざ来てくれたのだから、あの人達は、本当に僕を心配してくれていた友人であり恩師だったに違いない。

しかし、当時の僕は、「なんや?あわれな同級生の見舞いに来て点とりか?」とか、「あーあー、来てどうすんの?迷惑やわー!笑いに来たか!」とか「そもそも、俺のこの現状を、何とかできると思ってる時点でおこがましいわ!」とか思っていた。なかなかのクズである。】

【そんな状況が続いて、屈辱に耐えきれなくなった僕はバイトをやめた。
親には、「ほんま続かんね~!情けない!」、「もう学校も行ってないねんぞ?働け!お前みたいなもんに飯くわせる義理ない!」などと言われたが、その時も、「こんなに優秀な俺に、ただただ働けて…もったいないと思わんのか?この才能を!…アホやな~…」とか思っていた。救いようがない】

確かに救いようがない(笑)。なかなかの酷さである。しかしこういう自分を、隠すことなく露わにしている、という点が、本書の面白さの背景にはあると思う。もちろんその面白さというのは、「こんなこと考えててアホやな~」という面白さでもあるのだけど、決してそれだけではない。その説明のために、以下の引用をしよう。

【「これはあくまで、世をしのぶ仮の姿だ。暴れん坊将軍とか、遠山の金さんとか水戸黄門とか、そんな感じなんや!」と思っていた。本気で例の着ぐるみ(※自分は着ぐるみを着ているだけで、本当の自分はその中にいるんだ、という妄想の話)を脱げたら…強くそう思った。
そうでも思わなければやってられなかった。この、思い込みの逃げ道がなければ、本当の話、死んでいたかもしれない。】

この感覚は分かるなあ、と思う。僕も、引きこもっている間は、自分を支える考え方が必要だったと思う。それが何だったのか、具体的には覚えていないけど、今の自分のあり方を正当化するような理屈をこねて、自分は決して間違っているわけではない、と虚勢を張らなければ、とてもじゃないけど毎日をやり過ごせなかった。引きこもりの切実さを示している、という意味でも面白さを感じられる描写だと僕は思う。

引きこもりを抜け出してからも、著者は相当に苦労した。色んな紆余曲折があり、お笑い芸人という道に進むことになったのだけど、あまりにも壮絶で後戻り出来ない人生を歩んできたが故に、周りと感覚が合わなくなっていく。

【俺とお前らでは、本当は全然立場が違う!お前らは、最悪芸人やめても、売れなくても、就職できる。でも、俺みたいに、学歴がない、借金はある、友達もおない、人脈、コネもない、実家とも断絶している、こんな人間はもう就職などできない!俺にはこれしかないんや!これアカンかったら死ぬしかないねん!所詮、お前らはセーフティゾーンでやってるに過ぎないねん!】


みたいなことを相方に言ってしまったりするわけで、彼がくぐり抜けてきた人生の壮絶さは推して知るべし、という感じである。

読み物としてとてもおもしろい作品なのだけど、本書から何か教訓を引き出すとすればこうなるだろう。

『優等生こそ、危ないぞ』


サポートいただけると励みになります!