【映画】「キャメラを持った男たち 関東大震災を撮る」感想・レビュー・解説

昨日たまたま、『NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 前編』というテレビ番組を観た。普段さほどNHKの番組を観ることがなく、テレビの時間表を調べてたまたま目についたという感じだ。

これが凄まじい番組だった。

1923年9月1日に関東大震災が起こった。ちょうど100年が経ったことになる。関東大震災当時、燃え盛る帝都を捉えた様々な記録映像が存在していた。もちろん、白黒だ。それらは、幾本もの記録映画として編集され、上映され、そのフィルムが国立映画アーカイブに寄贈され、保存されていた。

しかし、これらの記録映画は、同じ映像を使いまわしていたり、撮影者・撮影場所・撮影時間などが不明だったりと、「記録映像」としてはかなり不備があった。映画のラストに撮影技師などがクレジットされている映画もあるが、本当に彼らが撮影したのか分からない。また、映画の中で「有楽町」「浅草」などと場所を示す表示がなされるものもあるが、本当にその場所で撮られたのか分からないという状況だった(例えば、まったく同じ映像なのに、撮影場所として異なるキャプションがつけられたものがあったりした)。

そこでNHKは、それら関東大震災の記録映像を8K高細密で復元し、さらにカラー化した。高細密化したことによって、それまでぼんやりとしか見えなかった看板の文字などが読み取れるようになった。そしてそれを専門家に見てもらい、1コマ1コマ、東京のどこで何時頃に撮影された映像なのかを特定してもらうという、気の遠くなるような作業をしたのだ。

その映像が、昨日のNHKの番組で流れていた。カラー化された映像は、100年前の出来事であることを忘れさせるほどの鮮やかさだ。また、人々の笑顔の表情なども読み取れるようになり、震災直後は、後に東京中を火災が埋め尽くすことなど予想だにしていない、危機感の薄さも伝えることになった。

昨日の放送は前編であり、NHK+で視聴できると思う。また、後編は今日の21時から放送だ。僕は、リアルタイムで『VIVANT』を観て、後編はNHK+で観ようと思っている。

さて、それで今日観た映画『キャメラを持った男たち』だが、これはまさに、昨日NHKで放送していた記録映像を「撮影した者たち」の物語である。昨日のNHKで鮮やかになった関東大震災の映像を観て、その後この映画で、その映像を撮った者たちの来歴などについて知るという、非常に相互補完的な鑑賞体験という感じだった。

ちなみに、上映後のトークイベントの中で、国立映画アーカイブの方が登壇され、「関東大震災の記録映像のアーカイブを無料で観られるサイトが2023年9月1日に完成した」と言っていた。まさにNHKの番組は『キャメラを持った男たち』の中で使われている映像そのものを視聴できるサイトなので(これはカラー化してはないが)、興味のある人は観てみるといいだろう。

関東大震災の記録映像には、恐らく多くの人間が撮影に関わっており、恐らく現在においても、撮影者不明の映像はあるのだと思う。「関東大震災の時に、記録映像を撮影した」と後に証言する者も決して多くなかったようで、撮影者に関して判明している事実は少ない。

ただ、「関東大震災の記録映像を撮影した」とはっきり分かっている者が3名いる。そしてこの映画は、その3名をメインで描き出す作品である。

この3名は全員、当時盛り上がり始めていた映画産業に関わる者たちだ。それぞれ所属は異なるが、基本的には普段スタジオでカメラを扱っていた者たちであり、そんな彼らが、火の手がどんな風に進むのかも分からない、結果として多数の死者を出した関東大震災において、危険を顧みず、時に「こんな時になんで撮ってるんだ」と石を投げられたりしながら、必死で撮影を続けたのである。

1人目は岩岡巽。彼は元々、実業家。梅屋庄吉が設立した映画会社「M・パテー商會」の撮影技師だったが、その後自ら「岩岡商會」を起業、映画製作を行っていた。岩岡巽の孫である書家が映画に出演していたが、彼女は、「テレビで関東大震災の映像が流れた際、母親が『これお父さんが撮ったの』と言ったことで初めてその事実を知った」と語っていた。

他の2人と違い、岩岡の場合は、「関東大震災の際、いつどこでどんな風に撮影したのか」についての証言が残っていない(1955年に亡くなっているようなので、証言の記録が間に合わなかったのだろうと思う)。だから映画の中では、都市学の専門家が、岩岡巽が残したフィルムを徹底的に分析し、9月1日の震災直後から、どこをどう歩いてどの方角を撮影したのかをすべて明らかにしていた。

2人目は高坂利光。彼は浅草の隅田川を挟んで対岸、向島にかつてあった日活の撮影所の撮影技師だった。当時、東京の流行の中心は浅草であり、だから映画関係者にとって「向島―浅草」というのはホットラインだった。また当時の浅草には、シンボルとも言える「凌雲閣(浅草十二階)」という建物があった。高坂利光は恐らく、地震直後に「十二階はどうなっているだろうか」と考え、浅草に向かったに違いないと、映画に出てきた人物は推測していた。

高坂利光と助手は、火の手に追われるようにして東京を歩き回り撮影をした。どう連絡を取ったんだったかちょっと忘れたが、日活の上司から「カメラはどうなってもいいから、フィルムだけは死守してくれ」と言われ、その言葉に勇気づけられて撮影を続けた(この辺りの描写については、後に高坂自身が残した文章を基にしている)。そして、どうにか様々な撮影を終え、日暮里から京都へ直行、京都の撮影所ですぐに現像に取り掛かり、京都についた翌日ぐらいにはすぐ上映したというから、なかなか凄まじい動きだと思う。映画会社各社ともそうだったらしいが、とにかく関東大震災の記録映画は莫大な収益をもたらすほどの興収だったそうで、当時の人々の関心の高さや、映画会社の面々の商魂のたくましさみたいなものを感じさせられる。

3人目は、日本の文化・記録映画階を代表するカメラマンである白井茂だ。彼だけは元から、スタジオではなく、外での撮影を主としていた。日本軍による南京陥落の翌日には南京入りして撮影をするなどあちこちを飛び回っていた。

そんな白井は、関東大震災が起こった日、埼玉県にいた。何か撮影の予定があったそうだが、震災の一報を聞き、そんな撮影なんかしてる場合じゃないとすぐに東京に戻り、翌9月2日から撮影を開始した。彼はあの、関東大震災史上最大の犠牲者を出したと言われる被服廠跡の撮影も行っている。警察に撮影を止められたが、「この映像を地方で見てもらい食料を送ってもらうんだ」と言って説得したそうだ。

当時のフィルムは、1秒16コマで、200尺のフィルムだと3分半ぐらいしか撮れなかったそうだ。そんな中、白井茂は、関東大震災に関する記録映像を5000尺分、時間にして90分ほども撮影したという。関東大震災に関する記録映像としては、後に文科省が製作に携わった63分のものが最もよく知られているそうだが、その映像に使われているのも白井茂が撮ったものが多いそうだ(みたいなことを言っていた気がする)。

映画では他にも、「当時使われていたユニバーサルカメラの現物を引っ張り出してきて、そのカメラで現在の東京を撮る」「東日本大震災の際に津波映像を撮影したカメラマンの証言」「記録映像に映っていた、案内板に自身の行方を記載した女性のその後」など、関東大震災に絡めた描写が組み込まれている。映像メディアに記録した者がいたからこそ語れること、描けることを出来るだけ詰め込もうとしているのだと感じた。

映画の最後に、「PG12」って表示された。まあ分からんではない。死体の映像とか映るしな。でも、既に東日本大震災さえ経験していない子どもたちがたくさんいると考えると、こういう映画は、学校の教材的な感じで使うところがあってもいいんじゃないかな、と思ったりする。

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