【映画】「天才ヴァイオリニストと消えた旋律」感想・レビュー・解説

僕は勝手に、実話を下にした映画だと思っていたのだけど、どうもそうではないようだ。でも、実話だと言われても違和感がないくらい、リアリティのある映画だった。

まずは内容から。
物語は、1951年のロンドンから始まる。ポーランドからの移民である天才ヴァイオリニスト、ドヴィドル・ラパポートが初めて公演を行うことになっていた。会場には貴族や国会議員、タイムズの批評家など高名な人物が押し寄せていた。ドヴィドルは一度レコードを出したきりで、人前で演奏したことはない、国際的には無名という人物ながら、その前評判は恐ろしく高まっていた。
しかし、4時間前にリハを終えた後、どこかへ向かったドヴィドルは、そのまま戻ってこず、公演は行われなかった。
ここから物語は、この公演を境にして、過去と未来を行ったり着たりすることになる。
行われなかった公演から35年後、ドヴィドルと幼少期を共に過ごした兄弟のような関係であるマーティンは、今もドヴィドルを探し続けていた。そして、あるコンクールの審査員をしている最中、見つけた。壇上でヴァイオリンを弾く少年が、かつてのドヴィドルと同じようなやり方で弓に松脂を塗っていたのだ。その少年を起点にして、まだ生きているのかどうかさえ分からないドヴィドル捜しの旅が展開していく。
もう一方の物語は、ドヴィドルが父親と共にポーランドからやってきて、ヴァイオリンの腕を持つ息子の預け先を探す場面から始まる。ドヴィドルを預かる下宿先として、マーティンの父親が名乗りを上げ、マーティンはドヴィドルと相部屋することとなった。
ドヴィドル一家はポーランドに住み、一人イギリスでヴァイオリンの練習に励むドヴィドルだが、ドイツがポーランドに侵攻し、イギリスでもドイツ軍による空襲が激しくなる。ドヴィドルは家族の安否が分からず、家族を喪った時のユダヤ教の祈りも禁じられ、状況を把握できないまま、不安と共にヴァイオリンの練習を続ける。
マーティンとは、最初こそ仲が悪かったが、次第に打ち解け、兄弟のような関係になっていく。
だからこそマーティンは知りたかった。何故あの公演の日、戻って来なかったのかを。
というような話です。

なんというのか、特に日本人は普段深く考えないだろうテーマが扱われていて、「なるほど、そういう生き方もあるのか」と感じさせられた。始めは「人捜しミステリー」という感じで進んでいくのだが、次第にその中核に「ユダヤ教」の存在があると感じられるようになっていく。そして最終的にドヴィドルが語る「公演に現れなかった理由」に、なんというのか、どう反応していいのか分からないなぁ、という感覚になった。

そういう深みがあるという意味で、非常に興味深い作品だった。

この記事ではもちろん、「ドヴィドルが公演に現れなかった理由」には触れないが、宗教的な部分については少し触れたいことがあるので、それを書いてみよう。

ドヴィドルとマーティンが、「信仰」について話をしている場面がある。その場面で出てきたドヴィドルのセリフには、なるほどと感じさせられた。

マーティンから、「ユダヤ教から転向するのか?」と聞かれたドヴィドルは、こんな風に答える。

【ユダヤ人はユダヤ人だよ。
民族性は皮膚のようなものだよ。水を浴びようが溶けることはない。
でも、信仰はコートのようなものだ。暑かったら、脱げばいい】

なるほどなぁ、と感じた。正直僕は、「民族的なもの」を自覚させられる機会もなければ、「信仰」とは基本的に距離を置きたいと考えている人間なので、どちらも実感としては持ちようがない。しかし、「民族性は皮膚、信仰はコート」という表現は、ストンと腑に落ちた感じがする。

そして、そう言った直後のドヴィドルの行動にも驚かされることになるわけだが、それには触れないでおこう。

この映画ではまた、「なんのために演奏するのか?」という、音楽の本質を衝くような問いかけがなされる。

物語の中盤で、ドヴィドルが現れず結果的に中止になった公演のリハーサル直後の場面が描かれる。マーティンから調子を聞かれたドヴィドルは「クソだね」と答え、マーティンは「良いクソだ」と返す。

このやり取りは、その後もう一度登場する。そして、そのやり取りが意味するものが違う、という点にメッセージ性を感じる。

リハの際にドヴィドルが「クソだね」と言ったのは恐らく、「自分の技術がまだまだ未熟だ」という意味だろうと思う。しかし、再び現れる「クソだね」は、技術云々の問題ではないということが後に明らかになる。そして、ドヴィドルがいかなる理由で「クソだね」と言ったのかという点が、「なんのために演奏するのか?」という問いを生み出すことになるのだ。

以前、『蜜蜂と遠雷』という小説(か映画のどちらか)の中で、主人公の天才ピアニストが、「世界に僕だけしかいなくなっても、ピアノがあれば、僕はピアノを弾くと思うよ」みたいなことを言っていたことを思い出した。

あるいは、最近見た何かのテレビ番組にクリーピーナッツが出ており、R指定が、「仮に訴えたいことが何もなくなっても、ラップという行為を自分はずっとやっていたい」というようなことを言っていた。

つまり彼らにとって、「演奏」とは第一に自分自身のためのものである。もちろん、誰かが感動してくれたら嬉しいだろうし、誰かに届けたいと思って挑んでいるだろうが、そういうものがすべてなくなったとしても、行為として「ピアノ演奏」「ラップ」をやりたい、ということだ。

これもまた珍しい考え方だろう。というのも一般的に、「なんのために演奏するのか?」は、「観客のため」となるだろうからだ。「観客」というのは別に、コンサートなどに限らない。路上で演奏してもいいし、たった1人の誰かのためでもいいが、とにかく、「届けたいと思う誰かがいる」というのが、演奏に限らず「表現」の根底にある部分ではないかと思うのだ。

しかし、ドヴィドルは、自分のためでも、観客のためでもない、違う理由のために「消える」ことを選んだ。ここに「信仰」が絡んでくるわけだが、戦争も経験していない、信仰すべきものももたない僕には、やはり遠さを感じる世界ではある。

以前聞いたこんな話を思い出した。比叡山だかどこかの山奥に、修行のための建物があり、自ら望んだ者はそこに10年ぐらいたった1人で閉じこもって修行を続けるらしい。それは、これも僕にはなかなか遠さを感じる世界の話だが、この映画で語られるドヴィドルの人生についても、似たような遠さを抱かされる。

僕は、誤解を恐れずに書くが、「信仰」というものが人間を”縛り付けている”ように感じられる場面にモヤモヤすることが多い。もちろん信仰心を持つ本人は自身の行動を「自発的」だと感じているのだろうし、それを疑うわけではない。しかし、その人の行動原理に「信仰」が関わっていることを知ると、否応なしに遠ざかってしまいたくなってしまう。

それはきっと、僕が「信仰」に対して偏見を持っているからだろう。どうしても僕は、「『自分の意志』を曲げてでも『信仰』を優先する」という印象を持ってしまう。そしてそれは、本当に「正しい選択」なのかと疑問を抱いてしまう。

別に、それが他者との問題を引き起こさないのであれば、もちろん自由だ。ドヴィドルにしても、公演をすっぽかしたという点については多大なる問題と言えるが、それを抜きにして、彼が表舞台から姿を消し、彼なりの理由で「演奏」を続けることによって、被害を受ける人はいないだろう。だから、自由にすればいいという結論になる。

確かにそうなのだが、そのような冷静な判断をする一方で、僕の中には、「でもそれってどうなん?」という冷静ではいられない感情も出てきてしまう。

もちろんこの物語には、「戦争」という悲劇も大きな影響を与える要素として登場する。戦争に限らないが、悲劇的な出来事を経験した人が信仰に足を踏み入れることはあるだろうし、その辛い経験が信仰によって少しでも救われるのであれば良いことだと思う。

だから一息に非難も許容もできないのだが、モヤモヤはなかなか消えてくれない。

そのモヤモヤは、もっと卑近な例を使って説明すれば、「自分の行動をすべて占いで決める人」に対して感じるようなものに近い。別に「占い」の存在そのものを否定するつもりはまったくないのだが、世の中には占いに依存してしまう人もいて、中には「占いに決めてもらわないと自分では何も決められない」という状態にまで行き着いてしまうことがある。

やはりそれは、主従が誤っていると感じさせられてしまう。そして同じようなことを「信仰」に対しても感じる。

あくまでも人間が「主」であり、信仰が「従」でなければならない、と僕は思う。

色々書いたが、ドヴィドルを「間違いだ」と言いたいわけでは決してない。ただ僕の理解は及ばないし、今後も及ぶことはないだろうと思う。

改めて、自分は「信仰」には遠い人間なのだろうなぁ、と実感させられる映画でもあった。

「信仰」についてあれこれ書いたが、これは別に映画の評価とは関係ない。映画全体としては、なかなか面白かった。

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