【映画】「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」感想・レビュー・解説

これはなかなか興味深い映画だったけど、難しかった。とても「ちゃんと理解できた」などとは言えないが、しかし、様々な「境界的な事柄」に対する鋭い問いを放っているように思える。

アートや、生命科学の領域に対して。

以前、『皮膚を売った男』という映画を観たことがある。世の中には、「シェンゲンビザ」という、それを持ってさえいれば協定国間を自由に移動できるというビザが存在するのだが、それをシリア難民の背中に彫る、というアート作品を中心軸に置いた映画だ。シリア難民は、「人」としてはどこにも行くことが出来ないが、「アート作品」としてはどこへでも行くことができる。その皮肉を、「シリア難民の背中にシェンゲンビザを彫る」というシンプルな手法で実現しているのだ。

この物語事態はフィクションだが、モデルがいる。ヴィム・デルボアというアーティストがティム・ステイナーという男性の背中にタトゥーを彫った「TIM」というアート作品があり、実際にこのアート作品は15万ユーロで落札された。映画の中では、「いくらアート作品とはいえ、『人』を売買しているのだから問題では?」という視点も突きつけられるが、現実にそのようなやり取りが実現しているのだ。

この「TIM」は、アート作品の「境界的な事柄」と言っていいだろう。

あるいは生命科学の分野では、「出生前診断」や「デザイナーベイビー」などがずっと昔から問題になっている。遺伝子操作の技術が発達したため、「生まれる前に、子どもがどんな病気にかかりやすいかを知ることができる」「望む能力を持つ子どもを遺伝子操作で作り出す」ことは現実的には可能になっている。あとは、倫理の問題である。

このように、私たちが生きる世界においても、様々な「境界的な事柄」が存在し、その度に、新たなルールや仕組みを導入することで世の中を平常に保つ努力をしている。

そしてこの『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』もまさに、そんな「境界的な事柄」が描かれていると言える。

物語の舞台設定についてざっくりと触れておこう。とはいえ、観ただけで完璧に理解できたわけではなく、だからといって公式HPの内容を読んでもはっきり書かれていない部分もあり、僕の憶測も混じっている。

この世界に生きる人々は、ある意味で「ニュータイプ」だと言える。人類は人工的な環境に適用しようと急速な「進化」(それを「進化」と呼んでいいのかはともかく)がもたらされた。その最も大きな変化は、「『痛み』の感覚を失ったこと」だろう。この世界に生きる人間はそんな風に、私たちと根本的な「性質」が異なっている。

そんな世界に置いて、ボディーアートのパフォーマンスアーティストとして絶大な人気を誇る人物がいる。ソール・テンサーだ。彼は「加速進化症候群」という「病」(これも「病」と呼ぶべきなのかは分からない)を患っている。これは、「体内に、自然と『新たな臓器』が生み出される」という「病」であり、パートナーのカプリースがソールの体内から「臓器」を取り出す様がアートパフォーマンスとして提供されている。チケットが完売するほどの人気である。

一方、政府は人類の誤った進化と暴走を危惧し、どうにかそれを監視しようと「臓器登録所」を設立した。当然、ソールの他にも、体内に新たな臓器が生まれる者たちはいるわけで、そういう者がこの「臓器登録所」を訪れ、臓器タトゥーを施して保管・記録するのだ。今のところ、ソールの体内で生み出される臓器は「単一の機能を持つもの」に限られており、そこまで危険ではないが、その進化がいつ急速に進んでいくか分からない。それを監視したいというわけだ。

そんな臓器登録所を、ソールは初めて訪れた(ショーの中で臓器を摘出してしまうから今まで臓器登録所に来なかったというのは分かるが、何故この時ソールが臓器登録所を訪れようと思ったのか、僕には分からなかった)。臓器登録所を運営する2人は、政府系のNVU(ニュー・バイス・ユニット)の所属であり、基本的にその臓器登録所は「存在しない」ことになっていた。彼らはもちろん、臓器の記録・監視を任務としているわけだが、ソールとカプリースのパフォーマンスには個人的に興味を抱いており、「そこにいることが発覚したら職を失う」と言いながら、ソールのパフォーマンスを見にも来ている。

そんな折、ソールは観客の1人から、「プラスチックを食べる子どもの死体が手元にあるが、ショーの中で解剖しないか?」という提案を受ける……。

映画を観ながら、「ソールの行為は、アートと言えるのか?」という点をまず考えさせられた。映画の中でも、そういう疑問を提示する人物が出てくる。結局のところそれは、「アートだと思う人間がいるならアートである」みたいな定義しか出来ないんだろうが、しかしそこには倫理的な問題がある。いかに「痛み」を失った世界であり、かつ本人が了承しているとしても、「誰かの身体にメスを入れ、その臓器を取り出すという行為」を「アート」と呼んでいいのか?そんなことが許されるなら、貧困にあえぐ人たちから「許可を得た」と言い張って内蔵を取り出し、それを臓器移植が必要とされる人に売る行為も許容されて然るべきではないか。みたいなことを考えてしまう。

また、映画の中ではとにかく、「ソールのパフォーマンスには否応なしに惹き込まれてしまうし、エロティックささえ感じる」みたいな描写が結構ある。つまり、「人間の感覚に直接的に訴えるパフォーマンスだ」というわけだ。であればやはり、「アート」という括りにしておくしかないようにも思う。

とこんな風に、「境界的な事柄」について考えさせられる。

また、これは映画を中盤以降まで観てようやく理解できたのだけど、この映画では、「ソールのように、体内の変化が自然発生的に起こる場合」と、「人為的に人体改造を行う場合」とが対比される。これもまた難しい。

この難しさは、「変化が次世代に遺伝するか否か」である。

少し前にノーベル化学賞を受賞した「CRISPR」という遺伝子操作技術があるのだが、この技術はあまりにも簡単に遺伝子操作が可能になるとして大いに話題になった。かつては、一流の研究所で数年掛かったことが、高校生でも数日で行えてしまう、ぐらいのパラダイムが起こったそうだ。

さて、そんなCRISPRにはもう1つ、それまでの遺伝子操作と大きく異なる特徴がある。それは、「CRISPRで行った変化が、次世代にも受け継がれること」だ。それまでは、人為的に行った遺伝子操作は次世代には引き継がれなかった(はずだ)。恐らく、遺伝子操作の精度の問題だと思う。しかしCRISPRは、あまりにも「自然界に存在する普通の遺伝子変異」と同じように遺伝子操作が可能なので、その変異が次世代に受け継がれてしまう。だからより慎重に取り扱わなければならないのだ。

映画の中でも、似たような描写が描かれる。ソールのような「加速進化症候群」が次世代に遺伝するかについては言及がなかったが(病気によって、遺伝性のものとそうでないものがあるから分からない)、一方で、「人為的な改変が次世代に遺伝した」という描写についても描かれる。これはやはり非常に問題だ。政府(臓器登録所ら)はソールにも注目しているが、ソールの変異は自然発生的なので「取り締まる」みたいな発想にはなりようがない。しかし、「人為的な変異」については規制できるだろうし、監視を行える。

しかしこれも、「じゃあ、自然発生的な変異はいいわけ?」と考える人もいるだろう。というか、「自然発生的な変異がいいなら、人為的な変異だって別に認めてくれてもいいだろう」というスタンスが現れてもおかしくはない。これも、倫理の問題である。

正直なところ、映画の主人公であるソールがどんな動機で行動しているのかイマイチ良く分からない。もちろん、映画の後半で、「なるほど、あの人物と関わりがあるのか」という描写が描かれ、理解の一助にはなるが、だからと言ってすべては理解できない。たぶんそこが、この映画を理解する上で一番難しいように感じられた。

僕らが普通に生きていれば、この映画で描かれるような世界に直面することはまずないだろう。しかしゼロとは言えない。例えば、世界で核戦争が起こり、人類のほとんどが死滅する。残った者たちが自らの遺伝子を改変し、「放射能が蔓延する中でも生きられる」ように人体改造を行う。そこまでくれば、「だったらついでに痛みの感覚も取ってしまおう」みたいに考える人も出てくるだろうし、新しい臓器が生まれるような病気が発生したっておかしくはない。

この映画で描かれる世界そのものは「リアル」からは遠いが、この映画が突きつける問いに僕らが直面する可能性はいくらでもある。公式HPには、監督は20年前にこの脚本を書き上げていたが、この映画を作るのに相応しい時代になるまで待っていた、みたいに書かれていた。確かに、先程挙げた生命科学の問題もあるし、公式HPにはマイクロプラスチックの問題にも触れられていた。

なかなか、考えさせる余地の深い物語である。

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