見出し画像

【本】池谷孝司「スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか」感想・レビュー・解説

『教師の仕事は好きでした。でも、根本的なところで間違っていました。自分が権力を持っているなんて考えもしませんでした』

小学4年生の生徒へのセクハラで執行猶予付きの判決を下された元教師が、そう語る場面があった。本書の中で、僕が一番驚いた発想だ。

『「私は生徒の目線に立って指導しています」と言う先生は多い。「でも、あなたに権力があるのは歴然としている」と私(※本書に登場する、スクールセクハラの解決に専門的に取り組むNPO代表の亀井さん)は指摘します。進学のための内申書を付け、部活動の選手を選ぶのだから、と。そう言われて初めて自分の権力に気付く人が多いんです』

これには、本当に驚かされた。自分に権力がある、という発想がなければ、そりゃあわいせつやセクハラや体罰はなくならないわな、と物凄く納得した。

とはいえ、そう言っている僕にしても、自分が持つ権力みたいなものに気づけたのは、偶然によるところが大きい(ちなみに、僕は教師ではない。ここで言う権力というのは、先輩後輩のような上下関係が発生しうるすべての場で存在しうるものだ)。

僕は小売店で働いているが、その中には大雑把に分けて「社員」と「アルバイト」がいる。そしてそのアルバイトも、入った順番で先輩・後輩がある。あまり上とか下とかいう表現は好きではないのだけど、僕は、自分より下の立場の人間と関わる時、「自分が恐れられている可能性」を常に考慮に入れている。立場に差があるからだ。

昔から、そういう発想を持てていたわけではない。僕がそういう風に考えるようになったのは、女子会に混じるようになってからだ。

僕は何故か、大勢の女子に僕一人だけ男、という飲み会によく呼ばれることがあった。僕はそういう場で男扱いされないので、女子会のように(男の僕がいるから完全には女子会にならないにせよ)女子たちは話をする。その中で、僕は何度も驚かされることになった。女子たちが、同じ職場で働いている自分よりも立場が上の男たちを、ボロクソに罵っていたのだ。驚いたのは、罵っているという事実に対してではない。普段の振る舞いを見る限りでは、彼らは非常に仲良さげに見えていたからだ。少なくとも僕の目には、彼らの間のわだかまりを、彼らのやり取りから感じることは出来なかった。だからこそ、陰でボロクソに罵っているのを聞いて驚いたのだ。

僕は、女子会に紛れ込むことで、そういう経験を何度もした。恐らく、僕もどこかでそんな風に罵られていることがあるだろう、と想像した。僕自身に対する女性の振る舞いだけからは、自分に対する嫌悪には気づけないだろう、と判断した。


そうやって僕は、立場が下の女性が、上の人間に対して表向きどう振る舞い、裏でどう振る舞っているのかを理解していった。そして、女性がそういう振る舞いをしなければならないのには、立場の差による権力の存在があるのだ、ということを理解できるようになっていった。

女子会に紛れ込む経験をしていなければ、もしかしたら今も気づいていなかったかもしれない。自分に権力があるなどとは微塵も考えずに、相手の振る舞いをそのまま真に受けて、相手が嫌悪する行動を無自覚の内にとってしまっていたかもしれない。

そんな風にしてイメージしていくと、冒頭に挙げた教師の言葉も、まったく理解できないものではなくなってくるようにも思う。

『二十五年の教師生活で誰も教えてくれませんでした。他の教師はみんな分かっているのかというと、そんなことはないと思います』

自分が持つ権力に気づいた今の僕の頭では、この教師の言っていることは言い訳じみて聞こえるが、自分が持つ権力に気づけなかった可能性のことを考えると、単純にこの教師を責めるのも酷に思える。もちろん、彼がしたことは許されるべきではないが、本書でもそう書かれているように、スクールセクハラは個人の問題ではなく組織の構造的な問題なのだろう、と感じる。


『裁判で鈴木(※仮名です)が一番ショックだったのは「教師の権力を使って教え子を思い通りにした」と言われたことだという。学校で教師が権力を持つ存在だという意識はまるでなかった』

もちろん、悪いたくらみを持って教師になる者もいるだろう。そういう人間を採用の段階で排除する仕組みを作るのは非常に困難だし、なかなか防ぎようはないだろう。しかしもし、真面目に教育する意志を持って教師になったのに、「自分が権力者である自覚がないこと」によってスクールセクハラの加害者になってしまっている者も多いのだとすれば、それは教師への教育で改善出来る可能性があるはずだ。『自分が意識していなくても、教師と子どもは権力関係にあることを大学でも研修でもきちんと教えるべきです』という指摘は、最もすぎるほど最もだ。

僕は、自分が権力を持っていることを普段から自覚し、それが関係性においてなるべく障害にならないような振る舞いをしようと心がけている。自分のやっていることがうまくいっているのかどうかは永久に確認しようがないのだが(女性の表向きの振る舞いからでは自分に対する悪意を感じ取ることは不可能、という前提なので)、権力を持っているものの発言がどう受け取られる可能性があるか、ということは常に自覚的でありたい、と思っている。

内容に入ろうと思います。
本書は、共同通信の記者である著者が、「スクールセクハラ」と名付けた学校におけるわいせつ被害を深く取材し、それを「届かない悲鳴―学校だから起きたこと」という題で全国の新聞社に配信した連載企画に大幅加筆して書籍化した作品だ。

本書では、随所に著者の「スクールセクハラ」に対する問題意識が描かれている。

『文部科学省によると、1990年度にわいせつ行為で懲戒免職になった公立小中学校の教師はわずか3人だった。ところが、過去最悪となった2012年度には、なんと40倍の119人に達している。(中略)急に教師の質が落ちるはずはなく、見過ごされてきたのが厳しく処分されるようになっただけだ』

『性暴力は「魂の殺人」といわれる』と書く著者は、被害者の取材を通じて、スクールセクハラが許容されていいはずがない、と憤る。そんな著者の憤りが、様々な困難のある取材に邁進させるのだ。

難しい点の一つは、被害者が表に出たがらないことだ。被害者の多くは、親にもそのことを話せていない。そんな話を、男である著者が聞き出さなければならない。よほどの信頼関係がなければ難しいだろう。後でも触れるだろうが、スクールセクハラには二次被害が付き物だ。そうやって、二重三重に傷ついてきた者の心を開かせ、詳しい話を聞き出すという難しさがある。

また、さらに難しいのは、加害者側の話を聞きだすことだ。スクールセクハラは、ほとんどの場合密室で行われる。目撃者も証拠もない中で、加害者側の自白がどうしても必要とされる。被害者が勇気を振り絞って告発しても、学校の体質と、証拠が存在しないことで、被害者側が嘘つきにされるケースも少なくないのだ。

『高校時代の教師の性被害に遭った横山智子さん(※仮名です)の取材を進めながら、教師から教え子へのわいせつ問題を考える時、どうしても加害者への深い取材が必要だと私は考えるようになっていった。被害者の声を聞くことはなにより大切だ。耳を傾けることで被害者の心が癒される場合もある。ただ、最終的に問題解決や再発防止を考えるには、加害者側の状況を知る必要があった』


先程挙げた鈴木(※仮名)は、贖罪の気持ちから素直に取材を受けてくれたが、そうではない者もたくさんいる。そういう輩とどうやり取りをし、自白を引き出していくのか。著者は、使命感から、その困難な取材に立ち向かっていくのだ。

本書では、スクールセクハラは組織の問題であると指摘される。

『教師から教え子へのわいせつ行為に、教育関係者はよく「一部の不心得者が」と口にする。「大半の先生は真面目なのに」というわけだ。だが、亀井さんは「学校の構造的な問題」だと考えている』

本書を読むと、そのことがよく理解できる。そもそもが、「教師に権力があると感じていない者が多い」ということ自体も組織の問題だが、スクールセクハラの問題が浮上した際の学校の対応の酷さにも問題がある。それらを総称して「二次被害」と呼んでいる。

例えば、こんな信じがたいやり取りが載っている。

『抗議する親たちを前に、校長が三人の女子生徒に聞いた。
「君たちは先生にどうしてもらいたいんだ?」
「私たちの前から消えてほしいんです」
「先生にも奥さんや子どもがいる。辞めさせられたら、家族はどうする」
あまりに無責任な対応に、三人が一斉に叫んだ。
「それは私たちには関係ないことです」』

呆れて物が言えないとはこのことだ。何を言ってるんだ、という感じだろう。悪いことをしたから糾弾しているのだ。それなのに、悪いことをした側に立って、辞めさせられたら家族が困るだろう、などと言ってのける校長がいるとは。

こんな例もある。

『全国大会に出たような学校の指導者が問題を起こすと、保護者が応援団になってかばうケースは多い。「恩をあだで返すのか」「輝かしい実績に泥を塗るのか」。親たちは繰り返した。』

教師だけではなく、自分の子どもが被害に遭っていたかもしれない保護者までもが、悪質な教師を守るのだ。問題の根はとても深い。

『なぜ学校ではこうした二次被害が起きやすいのか。亀井さんはこう解説する。
「『あってはならないこと』だから『ない方がいい』。それが『なかったことにしよう』になってしまう。加害者が否定したら、学校や関係者の利害も一致して『先生が正しい。生徒が嘘をついた』とされやすいからです。いじめ自殺で、学校関係者が保身のために事実を隠すのと同じ構造です」』

悪意を持ってセクハラをする悪質な教師ももちろんいるだろうし、そういう人間に対しては個人の問題だと言っていいかもしれない。しかし、権力を行使している自覚のない者がセクハラと認定される行為をしてしまうことは組織の問題だし、さらに隠蔽体質になってしまうのも組織の問題だ。これは、個人で解決出来る問題ではない。スクールセクハラは、『あってはならないこと』という共通認識は共有出来るはずだ。であれば、そこからどうそれを実現していくのかを組織全体で真剣に考えなければならない。


『国連で1989年に採択された「子どもの権利条約」が、日本ではなかなか批准されなかった歴史がある。94年までずれ込み、日本は158番目の批准国になった。その背景を亀井さんが説明する。
「学校や大人に『子どもの権利』を守る意識が乏しいんです。権利ばかり主張して義務を果たさない人間になると困る、という本音が背景にあります」』

これは組織に限らず、社会全体の問題だと言えるだろう。大人が「子どもの権利」を守る意識がないという雰囲気は、学校だけでなく家庭でも醸成されるはずだ。解説を書いた小島慶子は、自身も子どもの頃、担任教師からセクハラを受けたと書き、自分の子どもたちには、自分の身は自分で守れるように意識してもらえるように常に言葉を掛けていると書く。日本人は、教師を絶対視しすぎるようにも感じられる。学校は教育の場ではあるが、やはり家庭こそが教育の中心地なのだ、ということを、改めて認識し直さなくてはいけないのではないか、とも思わされる作品だった。

サポートいただけると励みになります!