【映画】「あんのこと」感想・レビュー・解説


「やってられないよなぁ」という言葉しか出てこない。本当に、やってらんないだろ、こんなの。

実話が基になっているのだそうだ。

主人公の杏や、彼女の更生を手助けしようとする者たちを丁寧に描き出す物語なのだが、まず僕はやはり、杏の母親のことについて考えてしまう。どうしてこんな母親の存在が野放しにされているのだろうか、と。

少し前に、『システムクラッシャー』という映画を観た。ちょっとしたことでかんしゃくを起こし、学校などで共同生活を送れない少女を描く物語なのだが、その中で僕は、舞台となるドイツの福祉制度に驚かされた。何よりも「子どもの人権」を最優先に考えるため、日本なら「民事不介入」という理由でノータッチになるだろう家族の領域にも警察が入り込む。

また、今ネットでざっと調べたのだが、「虐待・ネグレクトを原因とする親権剥奪」は、日本では年間20件だが、イギリスでは年間2~5万件も行われているそうだ。つまり、「不適切な親から子どもを引き剥がす」ということが、当たり前のように行われているのである。

どうしてそういうことが、日本では出来ないのだろうか、と思う。杏のケースにしたって、「親から親権を剥奪する」ことですぐ解決するはずだ。そうすれば、その後のすべての不幸は起こらなかったかもしれない。

本作では、多々羅という少し変わった刑事が、杏の更生に付き添う。役所では生活保護の申請を認めない職員に怒鳴り、「20日間働いて5万円しか給料を渡さない福祉施設」には、「労基に駆け込んでもいいんだぞ」と脅す。そういう多々羅の振る舞いは、とても心強いし、助けになるだろう。

しかしやはり、根本的な部分をどうにかしなければ意味がない。「親として相応しくない人間」なんか山ほどいるはずだ。そういう奴らからもっと積極的に子どもを奪い取っていく。そういう社会にならないと、きっと何も変わらないだろう。

本作には、色んな形で「イライラさせる人・状況」が描き出される。それら1つ1つも確かに問題なのだが、それらのほとんどは根本的な原因が無ければ生まれなかったものだと思う。そしてその「根本的な原因」というのが、杏の母親である。このことをもっと強く認識しなければならないだろうと思う。

さて、やはり本作は、杏を演じた河合優実の演技が凄いと思う。

僕が河合優実を認識したのは、映画『少女は卒業しない』だった。彼女は一般的には、ドラマ『不適切にもほどがある!』でブレイクしたという認識だと思うが、そうやって河合優実の名前を目にするようになってすぐに思い出したのが『少女は卒業しない』だった。

しかし実はそれ以前にも、僕が観ていた様々な映画に出ていたようだ。『由宇子の天秤』『PLAN75』『ある男』などだ。特に『由宇子の天秤』は、「あぁ、あの役の子か」と今でも思い出せるぐらいの存在感だった。あれが河合優実だったのか。

2019年にデビューし、2022年には8本の映画に出演していたというのだから、近年稀に見るスピードで売れた女優ではないかと思う。本当のところは、そんな外的な情報はどうでもいいのだが、「多くの人が一緒に仕事をしたい」と思うからこその出演作数なのだと思うし、だとすれば、彼女にしか持ち得ない「何か」があるということなのだと思う。

そしてその「何か」が前面に押し出されているのが本作なのではないかと思う。

薬物中毒から脱するために、杏は刑事の勧めでグループホームに参加する。皆で集まって自身の経験を語り、「今日も薬物に手を出さずに済んだ」と喜び合い、ヨガで少し身体を動かすと言った集まりだ。その中で彼女が、これまでの自身の来歴を皆の前で話す場面がある。

小学生の頃に万引きの常習犯で、それが学校にバレて行かなくなった。小学4年を最後に学校には通っていないため、難しい感じは読めないし、簡単な計算も苦手だ。12歳の時にウリをやらされた。相手は、母親が紹介した男だった。16歳の時にヤクザみたいな男にシャブを打たれ、その後止めるきっかけがないままズルズルと使い続けてしまった。そうしてある出来事をきっかけに警察に捕まり、多々羅と出会い、グループホームにやってきたというわけだ。

彼女は、母親によって踏みにじられてきた人生を立て直そうと奮闘する。シャブを使っていたことについて、「ヤクザみたいな男に打たれた」「止めるきっかけがなかった」と言っているように、自発的に薬物を使いたかったわけではないし、後半で描かれるある驚きの展開の様子を見ていても、「母親さえまともだったら、普通の平凡な人生を歩んでいただろう」と感じられる。

毒親の元をどうにか逃れた彼女は、多々羅に「介護施設で働きたい」と相談する。稲垣吾郎演じる記者が、「どうして介護施設でなきゃダメなんですか?」と聞くと、「ばあさんの介護が出来るようになりたいんだとよ」とのことである。多々羅は、「仕事を選べるような立場じゃないだろうに」と口にするが、杏の優しさが滲み出る場面である。

また、日本語を学ぶ外国人に混じって、小学生の勉強を学び直そうともする。決して歩みは早くはないかもしれないが、彼女は彼女に出来る最大限の努力で、自分が生きるべき世界と向き合おうとしていたのだ。

そして、それを母親がぶち壊していく。マジでやってられない。

そんなやるせなさを、とにかく河合優実が見事に演じている。ホントに不思議だ。「大昔から役者やってました」みたいな佇まいで本作『あんのこと』の世界に生きているのである。何をどうしたらこんな雰囲気を出せるんだろう。

また、『不適切にもほどがある!』で一躍知られるようになったとはいえ、まだまだ「みんなが知っている俳優」という感じではない。だから河合優実という役者にはまだ、「無記名性」みたいなものがあると言えるのではないかと思う。そしてその「無記名性」が、本作の主人公・杏を演じる上ではとても大きな要素になっていたかもしれない。本作は、新聞の三面記事から着想を得たのだそうだ。脚本も書いている監督が、その新聞記事を見た後で関係者に取材などしたのかどうか不明だが、いずれにせよ、監督にとって杏は「どこの誰かも分からない存在」として関わりが始まったはずだと思う。

そして、そんな「どこの誰かも分からない存在」である杏のような人は恐らく、日本中にたくさんいる。実話が基になっていることは確かだろうが、同時に、不特定多数の人たちの物語でもあると言えるのではないかと思う。だからこそ、河合優実が持つ「無記名性」が、杏の存在感を一層強めていると受け取れるのではないだろうか。

そういう、自身の努力ではどうにもならない要素も味方につけた上で、河合優実は杏を演じるのに最適な人物だったと感じられる。僕はあまり、監督や役者で観る作品を決めたりしないのだが、河合優実は「出演していたら観る」と決め打ちする役者になった。とても興味深い存在である。

さて、演技で言えば、佐藤二朗も凄かった。佐藤二朗、凄いなぁ。彼が演じた多々羅という役は、なかなかトリッキーな人物で、しかし、佐藤二朗がよく出演するようなコメディタッチの作品ではないので、「トリッキーだが実在感を抱かせる人物」として演じなければならない。そして多々羅は、なかなかそのバランスが難しい人物だと思う。

最初の取り調べのシーンからぶっ飛んでいるのだが、しかし「なるほどなー」とも感じた。多々羅がどのような取り調べをしたのかは是非観てほしいが、結果として多々羅のやり方によって杏は自白するのだ。そして、なんとなくだが、あの取り調べで自白しようと思った杏の気持ちも分からないではない。「普通の大人」じゃないからだ。

本作は基本的に過去の回想シーンなどはないので、「杏がどのような境遇を経てきたのか」について映像で提示されることはない。しかし恐らく、「大人に裏切られることの連続」だったのだろうと思う。そして、母親を始め、教師やウリの相手の男などはきっと、「『普通の大人』っぽいことを言って、子どもの杏を諭そうとする」みたいなことが多かったのではないだろうか。

そして僕自身も、そういう大人は嫌いだ。

少し脱線するが、「大人になると、子どもの頃のことを忘れるのか?」と感じてしまうことが多い。大人が子どもに何かを言っている場面で、「お前が子どもだった時、大人にそれ言われたら嫌だっただろうが」と感じてしまうことは多い。そしてだから、そんな言葉は子どもには届かない。むしろ、「的外れなことを言っている」と思われるのがオチだ。

さて、そんな風に考えた時、多々羅の振る舞いは興味深い。「普通の大人」っぽくないからだ。結構ハチャメチャなのだが、ただ「本当のことを言っているっぽい感じ」がする。そう感じたからこそ、杏も多々羅には心を開いたのだろう。その感じは、なんか凄く分かる。

そして、そういう絶妙さを、佐藤二朗が本当に見事に演じるのだ。多々羅は本当に難しい役だと思うが、佐藤二朗は本当に適役だったと思う。多々羅のキャラクターが成立しないと、本作自体が成立しないので、佐藤二朗の貢献度はかなり高いと思う。

さて、本作についてはあと1点触れたいことがあるのだが、映画後半から明らかになる展開なのでぼやっと書くことにしよう。具体例を排して議論するとすれば、「作中で描かれる状況を『必要悪』と捉えていいか?」となるだろう。

この点は、正直難しい問題だと思う。

いや、難しくないと言えば難しいない。というのも僕は、それを「必要悪」とは捉えるべきではないと明確に考えているからだ。これを「必要悪」と呼んでいいはずがない。その立場は明確である。

しかし、じゃあどうすればいいのかという部分に答えが見つからないことは難しいと感じてしまう。

「それを『必要悪』と呼ぶか否か」という問いが成立するのは、それが「人助け」になっていることは間違いないからである。そして同時に、「その『人助け』になっている環境を継続的に維持し続けることはとても難しい」ことも理解できる。正直、「善意」だけで存続させることはかなり大変だろうと思う。

そしてだからこそああいうことになってしまっているのだと思う。そのこと自体ははっきりと否定するし、許容されるはずがない。しかしそうなると、「『善意』だけでこの状況を存続させるべきだ」という話にもなってしまうように思う。やはりそれはそれで現実的ではないだろう。

だから、どうしたらいいのか分からなくて悩んでしまうのだ。

僕は静岡県の富士市の出身なのだが、僕が生まれ育った頃には富士川町という名前だった。市町村合併で名前が変わったのだ。そして、その町名の由来となった「富士川」という川には、「人柱」の伝説がある。

かつてはかなり荒々しい川だったようで、洪水が頻発していたそうだ。堤防の建設を何度も行ったが、作っては流され被害が拡大する、みたいな状況が続いたという。そこで、自ら名乗り出たのか、あるいは誰かが指名したのか忘れたが、坊さんみたいな人が人柱となって生きたまま地面に埋められ、「川の神様(なのか?)」を鎮める、というやり方をしたそうだ。それで無事堤防が完成した、という話のようだ。実話なのかどうか覚えていないが、学校でそんな話を習った記憶がある。

さて、この話を聞いてどう感じるだろうか? まあそもそも、「人柱を立てれば川の神様が静まる」という話が非論理的なので判断しようがないと思うが、仮に「人柱を立てれば川の神様が静まる」ことが確実である場合に、「人柱を立てること」は「必要悪」として許容出来るだろうか? 本作で描かれているのは、そのような状況であるように僕には感じられる。

そして、やはり、「人柱」を「必要悪」と捉えることは難しいのではないかと思う。少なくとも、僕には許容できない。

「人柱」を立てなければ堤防が完成せず、それだと毎年多くの犠牲が生まれてしまうかもしれない。しかしそうだとしてもやはり、個人の犠牲によって大義を実現することには、抵抗がある。理想論に過ぎないが、「個人の犠牲に依らずとも大勢の犠牲を回避できる方法」を、やはり模索すべきだと考えてしまう。

しかし本当に、世の中から狂った親が退場する仕組みにならないかなと感じてしまうし、希望を持って社会と対峙しようとする人が最低限の穏やかさと共に生きられる世の中であってほしいと思う。そして、何よりも、河合優実と佐藤二朗の凄さに圧倒されてしまった。

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