【映画】「灼熱の魂 デジタル・リマスター版」感想・レビュー・解説

とんでもねぇ映画だった。これは凄い。

相変わらず、映画についてほぼ何も調べずに観に行くため、この映画の監督がドゥニ・ヴィルヌーヴであることも知らなかったし、ドゥニ・ヴィルヌーヴっていうのが『DUNE/デューン 砂の惑星』『メッセージ』『ブレードランナー 2049』を監督した人だってことも知らなかった。今挙げた3作品の中で、観たことがあるのは『メッセージ』だけだけど、他も、僕でも知ってるぐらいの超有名作。そんな映画監督の、伝説の出世作だそうだ。

「デジタル・リマスター版」が上映されるぐらいだから、もっと昔の作品なんだと思ってたら、元の作品は2011年に日本で公開されてるそうだ。どうして「デジタル・リマスター版」が製作されたのかは謎だ。

本当にこの作品は、観るのであれば何も知らない状態で観た方がいいと思うので、観るつもりの人はここでもう僕の文章を読むのを止めてもらう方がいいと思う。この感想では、物語の核心となるネタバレ的なことは書かないつもりだが、ストーリーや設定も何も知らずに観た方がいいと思う。

まずはざっくり内容に触れよう。

カナダに住む双子の姉弟であるジャンヌとシモンは、母ナワルの死を受け、母が長年秘書を勤めていた公証人・ジャンから、遺言状を提示された。その内容は、非常に奇妙なものだった。財産分与や葬式・墓などに触れた後、子どもたちに2つの指示がなされる。1つは「兄を探すこと」、もう1つは「父親を探すこと」である。兄・父それぞれにナワルは手紙を書いており、当人を見つけ出して手紙を渡したことを確認した時点で、ジャンからさらなる手紙が渡される、という手筈になっている。兄探しが弟のシモンが、父探しが姉のジャンヌが行うよう指示される。

姉弟は困惑した。何故なら、兄の話など聞いたこともないし、父は内戦で死亡したと聞かされていたからだ。弟のシモンは、常に「イカれて」いた母親がまたおかしなことを言っているだけだと相手にせず、「遺言なんか無視して普通に埋葬しよう」と提案するが、姉ジャンヌは母の遺言通り、父親の行方を探すことにする。

ナワルは、中東の出身だ。南部の村で生まれ育った。軍が絶えず視界のどこかにいて、内線が絶えない国だ。ある日ナワルは、婚約者を連れてきた。しかし、兄2人にその婚約者を殺されてしまう。難民だったからだ。ナワルの祖母は、「お前は一族の名誉を傷つけた」となじる。そして、ナワルが妊娠していると知ると、「出産したら、街まで行き、叔父のところで大学に通いなさい」と命じられる。ナワルは赤ちゃんを産み、その子は孤児院に預けられた。ナワルは言いつけ通りに叔父を頼り、大学に通う。

しかし、社会民族党が大学を閉鎖したことをきっかけに、彼女は行動を起こす。叔父たちは「情勢が安定するまで山に避難する」と言って準備をするが、ナワルはこっそりと叔父の家を抜け出し、紛争が続く危険な南部へと向かう。孤児院で息子を見つけるためだ。

母の祖国へと足を踏み入れたジャンヌは、唯一手元にある母の写真を元に、母が通っていた大学から調査を開始する。すると、その写真を見たある人物が、「これは南部で撮られたものだ」と判断する。どうしてそんなことが分かったのか。それは、彼女が背にしている壁が、監獄のものだったからだ。南部クファリアットに置かれた悪名高き監獄。

そう、ナワルは15年という長い歳月を監獄で過ごした。「歌う女」と呼ばれ、ある意味でよく知られた人物だったのだ……。

というような話です。

映画のかなり冒頭の部分までしか内容に触れていない。ここからどう、兄と父親に辿り着くのか想像もできないだろう。一応これはネタバレではないと思うが、姉弟は兄と父親に最終的に辿り着く。その驚愕の真相が明らかになるまでの驚くべき物語だ。

この物語の何が凄いって、「最終的な真相」だけが衝撃ではない、ということだ。映画は、「姉弟が母ナワルの調査を行うパート」と「ナワルがどんな人生を送ってきたのかというパート」の2つがメインで描かれていくのだが、「最終的な真相」が衝撃として届くのは「姉弟が母ナワルの調査を行うパート」の方だ。そして、「ナワルがどんな人生を送ってきたのかというパート」の方はとにかく、最初から最後まで衝撃の連続なのである。

ラストの、いわゆる「オチ」だけが凄い作品となると、作品によってはちょっと弱さを感じてしまうこともある。しかしこの映画は、最初から最後までずっと凄い。そしてその上で、最後の「オチ」も凄まじいのだ。だから、とにかくずっと衝撃を受け続ける鑑賞体験となった。

映画を観ながら、「これは一体どの国の物語なんだ?」とずっと思っていたのだが、公式HPを見てみると、「中東の国」という設定だけで、特定の国を舞台にはしていないそうだ。というかそもそもこの物語は、ワジディ・ムアワッドという人物が書いた戯曲が元になっているようで、その戯曲でも国が指定されていないそうだ。この情報は、映画を観る前に知っておいても良かったかもしれない、と感じた。「特定の国の宗教や政治状況を知らなければ理解できない」という物語ではないと知った上で観る方が、より安心して楽しめたかもしれない。

物語の何に触れていいのだろうか、と感じるほど、正直「何にも触れたくない」と感じる映画だった。分かりやすく内容を伝えることにも、僕が感じた衝撃を言葉にすることにも、さほど意味を感じない。映画に限らず、すべての創作物はそうであることが理想だと思うが、この映画は、「この映画を観ることでしか受け取れない何か」がある。創作物によっては、他人の感想を聞いたり、要約されたストーリーを知ったりすることで、「なんとなく分かったような感じ」になれるものもある。もちろんそれは錯覚に過ぎないが、しかし、すべての創作物に触れることは出来ないのだから、「なんとなく分かったような感じ」で留まってしまうことも決して間違いだとは思わない。

ただ、『灼熱の魂』の場合、それは無理だ。最後の「真相」を知ったところで、あるいはナワルの壮絶な人生をつぶさに理解したところで、それは情報として「0」でしかないだろう。それぐらいこの映画は、観ることによる衝撃が大きい。「物語」が持つ力も凄いのだが、それ以上に「映像そのものを含めた『鑑賞体験』」がもたらす力も大きい。

そしてその上で、「物語」も物凄く上手くできている。映画を最後まで観た上で振り返ってみると、情報の出し方が絶妙に見事だと感じる。姉弟とナワルそれぞれの物語は自然に進行させつつ、衝撃の真相に辿り着くまでの、物語全体における情報の提示の仕方がとても上手かった。特にこの映画の「真相」は、普通には理解も許容もまったく不可能だと感じるようなイカれたものだ。もしも、「真相」だけ取り出して聞かせたとしたら、誰もが「そんなことあり得ないだろう」と感じると思う。しかしこの物語は、そんな「あり得ない」展開を、「あぁ、なるほど、そういうことなのか」という納得とともに提示してしまう。もちろん、「あり得ない」展開なのだから、納得などしたくない。したくないのだが、しかし、納得せざるを得ない強度でこの「真相」が提示されるので、観客は諦めて納得するしかない。そうか、そうだったのか、と。

その強度は、つまり、ナワルの人生の悲惨さに比例している。普通には納得できるはずもない「あり得ない」展開は、ナワルがあまりにもあり得ない人生を歩んでいるが故に、相応の強度を持ってしまう。そして、ナワルが経験した人生の重さ分の強度を持って観客にのしかかってくる。凄まじい重量だ。

母の死後、様々な人物を訪ね歩いて母の足跡を辿った姉弟は、あくまでも母の人生を想像しているに過ぎない。もちろん彼らは彼らで、母の人生をじわじわと剥がしていく過程で、自分の人生もまためくれ上がっていくことに次第に気づくことになる。その衝撃は、観客には想像が及ばないものだ。ただ、母の人生について言えば、姉弟よりも、観客である僕たちの方が、遥かにその悲惨さを知ることができる。

とにかく凄かった。

最後まで観た上で、1つ考えたいことは、ナワルの動機だろう。

映画の中で、「時として、知らない方が良いこともある」というセリフが出てくる。まさにナワルの人生は、そういう類のものだ。姉弟は、兄の存在も父の存在もそもそも知らなかった。だから、ナワルが奇妙な遺言を残さなければ、「知らない方が良いこと」を知らないままでいられたはずだ。

色んな解釈はあり得ると思うが、僕はやはり、「母親としてはまともでいられなかったナワルが、子どもたちにその理由を知ってほしかった」のだと、単純に解釈している。もちろんそれは、ナワルが生きている間にも出来ただろう。

しかし心理学的に、人間は「苦労して手に入れたモノ」に対しては、「簡単に手に入れたモノ」よりも深く思い入れを持つことがわかっている。

ナワルが自身の来歴を話したとして、それは姉弟にとって「簡単に手に入れたモノ」でしかない。となれば、ナワルのその「告白」は、姉弟にとっては「不愉快なもの」としてしか受け取られないかもしれない。

ナワルは、「遺言」というとても強い約束によって、姉弟に「兄と父を探すこと」を強いた。確かにそれは、兄と父を探す旅路だったが、しかし同時に彼らは、母ナワルの壮絶な人生を追いかけることにもなった。そして、そんな風に「苦労して手に入れたモノ」として母の人生を知ることで、それが単なる「不愉快なもの」としては受け取られないことを期待したのではないかと思う。

ナワルは姉弟に「愛している」と伝えたかったはずだ。しかし、ナワルの人生を伝えれば伝えるほど、ナワルの「愛している」は姉弟に届かなくなる。その理由は、映画を観れば理解できるだろう。ナワルの人生をシンプルに捉えた時、姉弟が「母が自分たちを愛しているはずがない」と受け取るのは決して不自然ではない。

ナワルは子どもたちに対して、態度では「愛」を伝えられなかった。それは、ナワルの人生があまりにも壮絶だったが故である。しかし、ナワルが自身の人生の壮絶さを伝えれば伝えるほど、今度は言葉でも「愛」が伝わらなくなってしまう。これはなかなかのジレンマだ。

だからこそナワルは、一縷の望みを「遺言」に託した。人によって受け取り方は多様だと思うが、しかし僕は映画を最後まで観て、「ナワルが子どもたちに『愛している』と伝えるためには、この手段しかなかったのだ」と感じた。

その辺りの、明確には描かれていない、観客の想像に任されている部分も含めて、すべてが完璧な映画だったと思う。

ちょっと凄い映画を観たなぁ。予告だけ見て「観よう」と決めたけど、その決断をした自分を褒めてあげたい。


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