【本】早見和真「イノセント・デイズ」

33年間生きてきて日々実感することは、「幸せ」は自分で決めるしかない、という真理だ。

人は誰しも「幸せ」を追い求めて生きている。たぶん、世の中のほとんどの人がそうなんだろうと思う。でも、その「幸せ」の中身は人それぞれ違う。

…ということに気がつくのに、人生の中で無駄な時間を使ってしまうような気がする。

子供の頃のことは記憶にないのだけど、たぶん僕も、世間一般で言われるような幸せを「幸せ」だと思っていたと思う。きちんと正社員になって、結婚して、子供をもうけて、家を立てて…というような、よくある幸せの形だ。それで、僕はきっとそういう生き方は出来ないだろうと中学生の頃には思っていたような漠然とした記憶があるので、今後の人生は不幸しかない、というような悲観的な考え方を持っていただろうと思う。

自分基準で色々と辛いこともあって、それなりのことを乗り越えてきた今は、なんでそんなことで悩んでいたんだろう、という気持ちになっている。結局僕の悩みは、「他人基準の幸せに行き着けないこと」でしかなかったし、そのことを不幸だと感じていただけだった。僕が考えなければならなかったのは、「僕自身は何を幸せだと思うのか」ということだ。

この問いに、もっと早く気づくことが出来ていれば、無駄な苦労をせずに済んだのかなぁ、という感じがする。

僕は、周囲との軋轢や様々な場からの逃亡など、周りに色んな迷惑を掛けながら、自分が何を幸せだと感じ、何を不幸だと感じるのかを確かめていった。いや、確かめるという意識で臨んでいたわけでは決してないのだけど、結果的にごく一般的な幸せの基準には馴染めないという感覚が募っていく中で、少しずつ意識が変わっていった。

時々他人の悩みを聞くことがあるが、その多くは、「自分なりの幸せの基準を持てば解決するな」と感じることが多い。そういう人は、誰かが決めた幸せの基準が正解だと思い込んでいて、そうじゃなければ幸せだと感じられないと信じているのだ。あるいはそもそも、「他人から幸せだと思われることが私の幸せだ」というタイプの人もいる。こういう人は、ある意味で「自分なりの幸せの基準」を持っていると言えなくもないが、そのほとんどを他人に依存しているせいで、幸せを感じることが出来ない。

自分の幸せが、世間一般の幸せの基準と合致していると感じられるなら、全力でそれを突き進めばいい。全力で向かっていって、それでも幸せを掴めないなら、それはある意味では仕方ないし、諦めるしかない。けど、すべての人間がそうであるはずがないし、他者基準の幸せを手放すことが出来れば楽になれる人は世の中に相当いるのではないかと思っている。全力を出す方向を間違っているだけなのでは?という問いかけは、常に持ち続けるべきだと思う。

『それが半生のキーワードであるかのように、彼女の日記には「必要とされたい」という言葉が散見された』

『人はだれからも必要とされないと死ぬんだとさ』

「幸せ」を自分で決めることが出来れば、彼らは死なずに済んだのかもしれない。自分が思い込んでいる「幸せ」を一旦手放してみる。その勇気を持てるかどうかが、結果的に幸せにたどり着けるきっかけなのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
本書は、連作短編集のような趣を持つ長編小説です。
物語は、ある女性に死刑判決が下されるところから始まる。
3月30日午前1時頃に、JR横浜線・中山駅近くのアパートで火事が起こった。二階の角部屋から井上美香と1歳の双子の姉妹・蓮音と彩音の遺体が見つかった。一人残された双子の父親である井上敬介は、老人ホームの夜勤中で難を逃れた。
警察はすぐに、自宅で自殺を図っていた田中幸乃を任意同行する。目を覚ました直後に彼女は罪を認め、逮捕された。敬介は美香と結婚する前に幸乃と付き合っており、別れを切り出された幸乃はストーカーに変貌した。明らかに放火であることや動機があること、そして本人が自白していることなどから幸乃の犯行であることは疑いようもなく、死刑適用の判断基準となっている「永山基準」から、死刑は免れないと思われていた。
幸乃は犯行こそ認めたものの反省を口にすることはなかった。死刑判決後、法廷で「う、生まれてきて、す、す、すみませんでした」と口にした幸乃の姿は異様だった。
物語は、田中幸乃が逮捕されるまでの人生で彼女と関わった様々な人物の回想や述懐などで組み立てられている。幸乃の母である田中ヒカルが彼女を産んだ時の話、小学生の頃の「丘の探検隊」の一員だった頃の話、中学時代唯一幸乃と関わりのあった同級生の話、幸乃がストーカー行為を働いた井上敬介の話…。
どの時代の幸乃からも、納得と違和感を感じ取れる。これだけの鬱屈と不幸を抱えていれば、放火して3人を殺すなんていうことをしでかしてもおかしくないかもしれない、という納得と、どれだけ辛いことがあっても屈せずに生き続けてきたのに死刑に抗しないのかという違和感を。
田中幸乃とは、どんな女性なのか。それぞれの時代で何を感じ、どう生きていたのか。若くして死刑を宣告された一人の女性が辿ってきた苦難の人生を追いかけながら、人生や幸せの意味を問いかける作品。

非常に面白かったし、考えさせられた。殺人事件や裁判が扱われる作品だが、ミステリーではない。死刑を宣告されながら、彼女と関わったことがある人間には違和感でしかない振る舞いをする田中幸乃という女性を様々な人間の目を通して描き出すことで、田中幸乃だけではなく、彼女と関わった人間の内側にある深淵を覗き込む。そんな作品だ。

田中幸乃との関わり方は様々だ。

丹下健生は、赤ん坊の田中幸乃を取り上げた産婦人科医だ。母である田中ヒカルとの関わりがメインだが、ここで、田中ヒカル自身が結果的に幸乃と同じ境遇であったことが明らかになる。

『私自身が必要とされない子だったから、私は誰よりも子どもが欲しがるものを知ってます』

誰からも必要とされていないと思い続けていた田中幸乃は、しかし望まれて生まれてきた子だった。そんな彼女が何故、「必要とされたい」とノートに書くほどに追い詰められていくのか。その過程は、どんな人間も無関係とは言えないと思う。どんな人であっても、予期せぬ出来事によって、あっという間に困窮する。そんな世の中に、僕らは生きているのだと思う。田中幸乃のような人生を歩まずに済んだというのは、幸運だったということに過ぎない。

倉田陽子は、幸乃の姉だ。ふとした瞬間に失神してしまうという、母から受け継いだ病気を持つ幸乃を姉として支えながら、翔・慎一という頼れる仲間と「丘の探検隊」を組んでいた。

『誰かが悲しい思いをしたら、みんなで助けてやること。これ、丘の探検隊の約束な』

ここでも幸乃は必要とされている。もちろんこれは、幸せな時代もあった、ということに過ぎない。結局この時期、幸乃の人生を大きく左右するような変化があり、そのことが幸乃の人生に暗い陰を落とすことになる。しかし、幸乃の人生を経験していないからこんなことが言えるのだろうけど、必要とされていた頃の経験や記憶を信じて生きていくことも、幸乃の選択次第では出来たのではないか、と思いたくなってしまう。

小曽根理子は、中学時代の幸乃の唯一の友達だ。宝町というドヤ街に住み、学校でもいつも陰気な雰囲気を漂わせる幸乃は学校中から疎まれる存在だったが、海外の古典文学を読んでいる、という繋がりから理子は幸乃に声を掛け、友達になった。しかし、普段つるんでいる山本皐月らが幸乃に良い感情を抱いていないと分かると、理子は幸乃に、学校では話しかけないでと頼んだ。それでも、二人は電話で話したり、理子の家に呼んだりと、親しい関係を続けていく。

理子が語る物語が、一番苦しく感じられる。理子は、強く望んでいるわけではないが、孤立したくないという理由で皐月らと関わる。その関係性の中で、理子は傷つくことになる。しかし、皐月らとの関係はやめられない。

それはある意味では幸乃がずっと感じてきたことと同じだ。「必要とされたい」。理子は、皐月から必要とされていると感じてしまうが故に、皐月から離れることが出来ない。一方で理子にとって、幸乃の存在も大事さを増していく。

『私には幸乃が必要なんだ。背伸びしないでいられるから。私を認めてくれるから。幸乃がホントに必要なの』

皐月に対しては「必要とされたい」と無理してしまう皐月も、幸乃の前では自然体でいられた。そんな理子に対して、幸乃も徐々に心を開いていく。お互いにとってお互いが唯一無二の存在になる。二人の関係は、まさにそういうものだった。

だからこそ…。彼女たちの人生に訪れたある出来事が悲しくて仕方がない。様々な条件が絡み合って起こった出来事だ。それぞれに悪い人間はいるが、しかしその悪を幸乃はすべて被ることになる。そしてそのことに対して幸乃は、こんな風に思うのだ。

『自分のことなんかで苦しんでほしくない』

この出来事が、幸乃に決定打を与えたように思えてならない。自分という人間の存在価値についての拭えない汚点みたいなものが、この時に染み付いてしまったのではないかと感じる。それまでも色々あったし、それからも色々あった。でも、もしこの出来事がなかったら…。幸乃の人生はもう少し違っていたのではないか。そんな風に思いたい自分がいる。

そういう経験を経て、幸乃は、井上敬介と出会うことになるのだ。

幸乃は、結果的に、自分なりの幸せの基準を掴むことが出来なかった。努力しなかったわけではない。幸乃は、人生の様々な場面で、彼女なりに勇気を振り絞り、彼女なりに努力をし、自分なりの幸せの形を掴もうと手を伸ばした。でも、その度にうまくいかなかった。もうこれは、不運だったとしか言いようがない。手を伸ばしても伸ばしても、いつも弾かれる。これが私の幸せだ、と信じた先に何もない、という絶望を何度も繰り返した彼女が、生きることを諦めてしまっても仕方がないようにも思う。

この物語が皮肉なのは、幸乃は最終的に、自分なりの幸せを見つけ、手を伸ばし、掴んで離さなかった、ということだ。どういうことなのかは本書を読んでほしいが、一般的ではない「幸せ」を掴み、これが最後だと信じて離さなかった彼女の意志の強さみたいなものが、逆に周囲に違和感を与え続ける。その違和感に答えを見出そうとして右往左往する人々が描かれるのだ。

この物語を読むと、ニュースの向こう側を知りたい気分になる。

『田中幸乃死刑囚は横浜市出身の三十歳。かつてつき合っていた恋人から別れを告げられたことに激昂し、元恋人の家族が住むアパートに火を放ち、妻と幼児二人の三人を焼死させた。二〇一〇年の秋に横浜地方裁判所で死刑判決を受けたあとは罪を悔やみ、拘置所では静かにそのときを待っていたという―』

彼女はそんな風にニュースで報道される。
この報道は、確かに田中幸乃という女性の犯した罪と人生の「要約」かもしれない。しかし、「要約」する過程で削ぎ落とされたものが多く、またねじ曲がって伝わっている部分もある。結果このニュースは、田中幸乃という人物をまったく捉えていないものになる。

僕らが普段触れるニュースも、きっと同じなのだろうと思う。日々様々な事件が起き、様々なニュースが流れる。僕らはマスコミを通じてしか、そういう事実を知ることはない。取材するマスコミの人間が何らかの予断を持っていれば、間違った印象や出来事が伝わることになる。しかし、そのことを確かめる術もない。手元に届いた情報を、そうなんだ、と受け取ることしか出来ない。

そのこと自体は、仕方がない。僕らの努力で変えられることではない。ただ、そうやって届いた情報を「すべて正しいことなんだ」と思うことは、今すぐにでも止められる。

『なんかいかにもだなってさ、私も間違いなくそう思ってたんだ。何も知らないくせに。自分勝手に決めつけて』

他人のことなんて、分からない。直接会って話してたって、分からないのだ。僕は普段から、分かったような気分にならないように気をつけている。見えているのは、ほんの一部。そのほんの一部から、本質を捉えたような気になるのは止めよう、と。自分が相手をどう見ているか、という表明をすることは自由だが、それが正しいことだと押し付けるのは間違いだろう。そんなようなことを、普段から意識している。

ニュースは、分かりやすい構図に全体を押し込めようとする。その方が注目されるし、分かりやすいからだ。けれど、分かりやすい構図に当てはめられる状況なんて、ほとんどない。正確な正三角形がこの世の中に存在しないのと同じように、誰もが捉えやすい構図にピッタリ嵌まる事象なんてないはずなのだ。

この物語は、ニュースの奥にあるかもしれない現実を描き出してくれる。事件の背後にある現実を暴き出してくれる。
この作品は物語だ。しかし、これと同じことが、いつどこで起こっていてもおかしくはない。日々流れるニュースの裏側には、そのニュースでは絶対に描き出せない様々な人間模様がある。そこに目を向けてみたい。そんな風に思わせてくれる作品だ。

サポートいただけると励みになります!