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レーニンは何を為したか【受験生必見】

ソビエト連邦の初代最高指導者であり、当店の顔としてもお馴染みウラジミール・レーニン。
4月22日は彼の誕生日であり、2021年の今年で151歳になります。
彼の顔や名前は知っているけど、何をした人なのか詳しくは知らないと言う方もいると思います。私Ryuseiも学生時代はソ連の人という印象しかない上に後の指導者のスターリンとの違いすらあまりわからないという状況でした(笑)
と言うわけで今回は、レーニンについて深掘りしていこうと思います。

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レーニンってあだ名?

レーニンやスターリンといえば誰もが知るソ連の指導者ですが、その呼び名は実はペンネーム。レーニンの本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフと言います。レーニンとは『レナ川の人』の意味。知る人ぞ知る、ソビエト連邦の樹立に大きく携わった人物です。

1870年にロシア西部の都市シンビルスク(現在のウリヤノフスク)で生まれました。ロシア革命ロシアでの革命を推進した彼の知能は非常に優れており、なんと死後には解剖して脳を研究
されるほど。学生時代にも優秀な成績を残しており、中高等学校を主席で卒業したり、サンクトペテルブルク大学の試験を学外学生として受けて全科目で満点を取ったりというエピソードも残っています。


ロシア革命~ソヴィエト樹立

レーニンが何を為したかをお話しする前に、革命以前のロシアについてお話しさせていただきます。

その頃のロシアは帝政ロシアと呼ばれており、皇帝(ツァーリ)による専制政治が行われている国でした。19世紀の中頃では人口の半分近くが農奴であり、この農奴制がロシア国内の体制を支えていました。
農奴の不自由さに不満を持つものも当然多く、また、フランスの自由主義の影響もあり専制政治の廃止を求める反乱なども起こりましたがすぐに鎮圧され民衆までは広がりませんでした。
そして1853年に始まり、イギリスに敗れたクリミア戦争でロシアの後進性が浮き彫りになると、61年には農奴解放令が発令されるなど近代化が押し進められます。
しかし上からの改革には限界があり、アナーキズムに影響を受けた知識人などによるナロードニキ運動が始まると国内に社会主義が台頭しました。
この頃にロシアにマルクス主義が持ち込まれ、マルクス主義者になったレーニンはロシア社会民主労働党に参加し、社会主義革命を目指します。
しかし革命の路線を巡ってロシア社会民主労働党は実質的に分裂。ボリシェヴィキと、メンシェヴィキに分かれました。

1904年に日露戦争が始まると、1905年1月に民衆が反戦や労働条件の改善を求めデモを起こしました。これが第一次ロシア革命です。
デモの結果、ソヴィエト(評議会)が樹立し、皇帝はドゥーマ(国会)の開設を約束。立憲体制が樹立しましたが、これは形だけで態勢が立て直ると革命運動を弾圧、すぐに専制政治が復活しました。

日露戦争でアジア進出に失敗したロシアは国内の混乱を抑えるためにさらなる領土を求め第二次世界大戦に参加。大戦中の1917年に、ペテログラードで民衆が蜂起するとロマノフ朝が倒され、ブルジョア指導の臨時政府が成立しました。一方で、革命派はソヴィエトを復活させ、ロシアは二重権力の状態に。(二月革命)
4月にレーニンが亡命地のスイスから帰還すると、四月テーゼとして知られる「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」という論文を発表し、ボリシェヴィキの運動方針を示しました。「全ての権力をソヴィエトへ」という標語がボリシェヴィキに支持され、この時にレーニンの指導性が確立したと言えます。
その後、第一回全ロシア=ソヴィエト会議において戦争継続を主張する臨時政府を支持するエスエルとメンシェヴィキ、臨時政府反対と即時平和を目指したボリシェヴィキで対立が起きると、エスエルのケレンスキーが武力を行使しボリシェヴィキを弾圧。七月暴動となり、レーニンはフィンランドへ亡命しました。
ボリシェヴィキを抑えたケレンスキー内閣でしたが、今度は右派のコルニーロフ将軍が帝政復活を目指し反乱を起こします。臨時政府側にこれを抑える力がなかったため、やむなくボリシェヴィキの力を借りて反乱を鎮圧。結果、ボリシェヴィキの発言力が上がり、レーニンも帰国して主導権が復活しました。
そして来たる10月、レーニンに指導されたボリシェヴィキが一挙に権力奪取を目指して武装蜂起。臨時政府を倒し十月革命を成し遂げます。

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少し長くなりましたが、ロシア革命によって帝政ロシアからソ連に移り変わる背景はこんな感じです。
ここからは、その動乱の時代の中でレーニンが何を為したかという解説に移ります。


①十月革命


1917年10月(新暦では11月)に行われた十月革。100年以上経った今でも深い意味を持った出来事として歴史のページに刻まれています。
人類史上で初めての社会主義政権を成立させた革命であり、その後の宣言も今日にまで多大な影響を及ぼしています。
18世紀後半のフランス革命で基本的人権という概念が生まれましたが、依然として資本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)の格差は広がるばかり。列強諸国も自国の富を増やすために植民地を増やそうと帝国主義が跋扈する世界でした。
そんな中で開かれた第二回ロシア=ソヴィエト会議で、レーニンは「平和についての布告」と「土地についての布告」を発表。
前者では、敗戦国に賠償金の請求や、領土や国民の併合を求めないことと民族自決の原則を宣言し、従来の秘密条約を廃棄、秘密外交の禁止を呼びかけました。後者では、地主的土地私有を廃止し農民に土地を分配。これで農民の地位が向上しました。
その後も、身分制度を廃止したり、結婚の自由や男女同権、労働時間を8時間に規定などの改革を実施。これまで、資本家に搾取され続けていた労働者の地位が向上し、我々にも馴染みのある今日まで続く制度が生まれたのもこの時代です。

コミンテルン


帝国主義と戦う国際的な共産主義運動を指導したレーニンが1919年に組織。
コミンテルンは共産主義インターナショナル(第3インターナショナルともいう)の略称で、労働運動や社会主義運動の国際連携にとどまらず、各国の社会主義政党が明確に革命を志向するための世界共産党として機能しました。

戦時共産主義から新経済政策(ネップ)への転換


十月革命によりソヴィエト政権が樹立し、社会のあり方をこれまでと大きく変えようとすると、それを面白く思わない反革命派や帝国主義の列強諸国はソヴィエトを潰しにかかり、内戦や対ソ干渉戦争が起こりました。
これらに勝ち抜くため、農民の余剰生産分を強制的に供出させ、食料を配給制にし、貨幣経済から現物経済にするなどの戦時共産主義を政策として採用しました。
結果として農民や労働者の労働意欲は落ちてしまい、各地で反乱が起きるようになります。
そこで1921年、レーニンの指導で新経済政策(ネップ)が打ち出されます。
部分的に市場経済を容認することで、ロシア経済は回復し、財政も安定しました。
戦時共産主義は飛躍的な共産主義体制への移行でしたが、ネップでは資本主義を少し取り入れており、レーニンはこの政策を「一歩後退、二歩前進」を目指すものと喩えています。

④レーニン主義


マルクス主義者だったレーニンは鋭い分析や、先見の明で彼なりの理論を組み立て、その思想はロシア革命の基盤となりました。
スターリンの定義によると「レーニン主義は、帝国主義およびプロレタリア革命時代のマルクス主義である。もっと正確にいうならば、レーニン主義とは、一般的にはプロレタリア革命の理論と戦術であり、特殊的にはプロレタリアート独裁の理論と戦術である。」とのこと。(『レーニン主義の基礎』より)
レーニン主義はレーニンの死後に定着した呼び方で、その内容も必ずしもレーニンの思想や見解と一致しているわけではありませんが、彼の叡智は伝わってきます。

⑤リクベズ


1919年には文盲清算(リクベズ)という政策も開始し、ロシア国内で教育を義務にしました。これにより識字率があがり、その影響で労働者たちの政治参加率も上がりました。MIRA-MIRU!の解説でもこの話題はあがりましたね。

⑥彼の死


1921年からレーニンは重病の床にあり、事実上の引退を余儀なくされていた。彼の後継としてトロツキーとスターリンが対立しており、1922年12月にはレーニンが遺書の中で2人をどう見ていたかが明言されていたが、この時遺書は公開されず、1956年フルシチョフによるスターリン批判まで秘密にされ続けた。
療養中のレーニンも症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示を出せたが、23年の3月には失語症も発症してしまい、24年1月には逝去しました。


遺体は死後すぐに防腐処理を施され、なんと現在も一般公開されています。
モスクワ、赤の広場にあるレーニン廟。最初の6週間だけで10万人もの人が見にきたそうです。
現在のロシアでも遺体をこのままにするか、埋葬するかという議論は続いていますが、今のところは展示が続くみたいです。
博物館化したりレーニンランドをつくったりするのが良いという意見もあるようです。

レーニン以後

なんとなくソ連は怖いものだという印象を持っている方も多いと思いますが、レーニンについて調べていくと彼が平和や平等を目指し、そのために革命を成したということがわかってきます。
しかし、レーニン以後のソ連はスターリンの独裁によりソ連時代が悲劇の時代であったことも確かです。
革命前後にはロシア国内の芸術運動も盛んになり、ロシア構成主義やシュプレマティスムが発展、ロシア・アヴァンギャルドのブームが来ました。
また、レーニンの時代には同性愛にも寛容だったようで、この頃にロシアの同姓愛カルチャーが発展したとも言われます。

現在でも多くの人に親しまれ、デザインのインスピレーションになることも多いレーニン。
当店の取り扱いブランドのKATE SNAPがレーニンモチーフのリングを出していたりします。

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終わりに

ソヴィエト=ロシア共和国が成立した時も周辺国を吸収ではなく連邦として横並びを目指し、歴史の中で搾取され続けていたプロレタリアート(労働者)の権利を形にした同志レーニン。

ソ連の人や社会主義の人という印象だけで白い目で見るのは違うと感じました。
もちろん彼が全てにおいて正しいわけでもなければ、宗教的に信仰されることにも違和感は覚えます。
しかし資本主義を見直す必要があるこの時代に、今一度彼の業績を見直す必要はあると思います。

Ryusei


おまけ

KAZUMAです。2018年、ウリヤノフスクのファッションイベントに招待され、現地で講演をしたときの記録を少し。

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モスクワのロシア人ですら「あの街はリアルなソ連」と例えるレーニンの出身地ウリヤノフスク。とにかく古い街や車、工場等生々しい生活感が漂うリアルなソ連がそこにありました。

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知る人ぞ知るロシアの自動車メーカーUAZの本拠地もウリヤノフスクにあります。行きたいと言いましたが、そのファッションイベントのスポンサーがKIAであるため、なぜかKIAの販売店に連れて行かれました笑

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レーニンの生家に連れて行ってもらったんですが、あまりに興奮しすぎて写真をあまり取らず、残っているが少ない。。。上の写真はレーニンが実際に執筆していたテーブル、下はリビングルーム。そのぐらいしか写真がないということで、誰かが上げているYOUTUBE動画を御覧ください笑

当時インスタグラムでウリヤノフスクに行くとアップしたら、たくさんのモスクワの友達から「あそこは危険だ!」「ロシアで最も治安が悪い。」との書き込みが。。。2泊3日でホテルから出る際は現地の案内が付いていたので、治安が悪いのかどうかはわかりませんでしたが、建物や走る車の古さ、プロパガンダなペイントなどに囲まれ、ソ連時代にタイムスリップしたかのような気持ちになりました。モスクワに行くたびにソ連を感じていたつもりになっていましたが、リアルなソ連はこれなんだなと実感。コロナ収束後機会があれば、また是非行ってみたいと思います。

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