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【能登半島地震】取材ノートから:自己責任排し、利他の心を

※文化時報2024年8月23日号の掲載記事です。

 中途入社から約10カ月。年相応の器用さと腹芸を身に付けなくてはと思いながらも、元来の性格はなかなか変わらない。宗教記者としての経験を重ねるべく、文字通り「足で稼ぐ」取材を続けている。不慣れなりにも駆け回り、さまざまな声から幾多の発見を得る日々だ。

 いい取材ができた達成感を感じることもあるが、未熟さを痛感することも多い。つまずきながらも走り続けられているのは、先々で出会う「利他」の心を持つ多くの方の助けを受けてのこと。勇み足をたしなめるキャップや、視点と踏み込みの弱さを指摘する主筆の言葉にははっとさせられるばかりだが、さまざまな関係性の中で行う仕事が、今はとても面白い。

 以前の私はフリーランスとして、東南アジア各地を足かけ9年取材してきた。内戦の爪痕が残る地雷汚染地域や緊迫感漂う紛争地帯。助言をくれる人などおらず、行くか退くか、責任は全て自分持ちだった。

 「今日はやばいな」と思う日は、遺書をポケットに、認識票と新品の下着を身に着けて家を出る。事件や事故に巻き込まれると、日本国内で自己責任を問う激しいバッシングが沸き起こるため、細心の注意が必要だった。いわく「迷惑」なのだそうだ。海外では一度も同様の声を聞いたことはなかった。ジャーナリズムに対する意識の違いだろうか。

 「何が起きているのか」を正確に伝えるため、記者は危険を承知で現場に向かう。「無事に帰る」が大前提だが、声なき声を伝えるためには、リスクを負う覚悟が必要だ。会社勤務となった今も、元日に発生した能登半島地震の現地取材では同じ気概で臨んだ。

 「自己責任論」は日本社会に根強く、会員制交流サイト(SNS)の普及に伴い誹謗中傷の嵐も強まっている。SNS上には能登半島地震の被災者に対し「耐震強化や保険加入をしていない方が悪い」「僻地に給付金や補助金は無駄」など、心ない非難も目立つ。被災者の痛みや苦しみをわが身に置き換え、少しでも思いをはせることはできないのだろうか。

 地震以降、宗教者らは物心両面から被災地支援を継続している。活動を直接的な支援だけにとどめず、被災地に関心を集め、利他の心を広げる啓発活動などにも力を入れてはどうか。「被災者と私」の間に横たわる、見えない境界線を取り払うことが、復興を加速化させる一助になると信じる。(佐々木雄嵩)

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