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「今釈迦」慈雲尊者の石碑移設

※文化時報2022年2月11日号の掲載記事です。

 江戸中期に戒律復興に努めた真言宗の高僧、慈雲尊者(1718~1805)の石碑と顕彰碑が生誕地の大阪・中之島から一時撤去され、尊者ゆかりの真言宗泉涌寺派大本山法樂寺(小松光昭住職、大阪市東住吉区)に仮安置された。再開発に伴い、土地所有者から移設を要請されていた。慈雲尊者顕彰会(竹村陽一会長)は、一日も早く元に戻ることを願っている。(春尾悦子)

 慈雲尊者は1718(享保3)年、大阪・中之島の高松藩蔵屋敷で生まれた。生涯にわたって「人となる道」を説いて「今釈迦」と評され、その教えは広く庶民に浸透。自身の法語をまとめた『十善法語』は、信頼を重んじる大阪商人の心を養い、「右手に算盤、左手に十善法語」との合言葉もできたほどだったという。

 高松藩蔵屋敷の跡地は、現在のリーガロイヤルホテルの東側に当たり、NTT都市開発(東京都千代田区)が所有している。1951(昭和26)年には「慈雲尊者生誕之地」の石碑が建立され、曹洞宗の禅僧・澤木興道老師(1880~1965)が「正法律ノ中興ニシテ、五百年間出ト称スル、学ト徳ノ高イ聖僧デアッタ」と記した。戦前にあった碑が戦災で失われ、建て直したことなども刻まれている。

 その後、一帯の開発が進み、奥まった所にある石碑が見えにくくなったため、2012(平成24)年、慈雲尊者顕彰会が初代会長の故・野田浩男氏の声掛けで、隣に新たな顕彰碑を建立。NTT都市開発から土地を借りる形で許可を得た。

移設前の「生誕之地」の石碑と顕彰碑

 だが、中之島の再開発事業に伴い、NTT都市開発が石碑と顕彰碑の撤去・移設を依頼。昨年6月から慈雲尊者顕彰会と協議を進めた結果、歴史的遺構としての意義を踏まえ、保存と存続にできる限り協力する意向を示したという。

 このため、両者は工事が終われば元の場所に石碑と顕彰碑を戻すよう契約。慈雲尊者顕彰会は工事期間中、大本山法樂寺で仮安置することを決めた。石碑と顕彰碑がない間も生誕地であることが分かるよう、NTT都市開発には案内板の設置を要請した。

 石碑と顕彰碑の移転に先立ち、1月13日に大阪・中之島の生誕地で遷座法要と式典が営まれ、高野山真言宗長楽寺(兵庫県香美町)の五十嵐啓道住職らが出仕。同17日には、尊者が出家・得度し住職も務めた大本山法樂寺の墓地内に仮安置された。

 遷座法要の導師を務めた法樂寺の小松庸祐上院(名誉住職)は「慈雲さんがかわいそう。一日も早く元の生誕地に戻っていただきたい」と話した。

宗派超え遺徳しのぶ

 慈雲尊者顕彰会は、尊者を尊崇し、ゆかりの地を訪ねていた人々が12年に結成した。法樂寺に残る史料や住職の話などから、事績を顕彰したいと願ったという。慈雲尊者は、法樂寺の住職を務めた後も、各地の寺で修行した。その足跡は、大阪、和歌山、奈良、京都から長野まで広域に及んでおり、顕彰会は有縁の地を巡る旅も行ってきた。

 これに先立つ00年、法樂寺は慈雲尊者200回御遠忌の顕彰事業を行った。宗派や僧俗を超え、その遺徳をしのんだ。

 光明真言百万遍念誦(ねんじゅ)法会が修されたほか、千枚の袈裟を縫うことで教えを省み、乱れを正すという尊者の提唱した「千衣裁製(せんねさいせい)」にちなみ、「お袈裟を縫う会」が始まった。千衣裁製は、尊者の教えとともに、各地の寺院や僧侶に受け継がれている。

 事業に協力した真言宗御室派大門寺(大阪府茨木市)の添野智譲住職も、石碑と顕彰碑について「再び生誕の地に安住して、きちんと顕彰されることを期待している」と話している。

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