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南都の古刹跡地を守ろう

※文化時報2022年1月21日号の掲載記事です。

 平安後期に法相・真言・天台の道場として開かれ、明治期に廃寺となった中川寺(なかがわでら)の開基、実範(じっぱん)上人(?~1144)を顕彰しようと、真言宗の有志が活動を始めた。法相宗大本山興福寺などが中川寺跡地(奈良市中ノ川町)で今年9月に行う命日法要への参加を検討する。関係者は「奈良と高野山が協力し、跡地を大切に守るきっかけになれば」と話している。(春尾悦子)

戒律復興の高僧

 京都府との県境にほど近い山林に、中川寺跡地はある。神仏分離令=用語解説=によって伽藍(がらん)は破壊されており、わずかに開けた明るい土地に、実範上人御廟塔がある。

 昨年11月25日には、真言宗では初めてとなる法要が営まれた。総本山教王護国寺(東寺)長者の飛鷹全隆・高野山三寶院前官が導師を務め、高野山真言宗の今川泰伸宗務総長、藤原栄善鷲林寺住職ら僧侶有志約20人が出仕。御廟塔に花と香を献じ、実範上人の遺徳をしのんだ。

 実範上人は、藤原顕実の第4子として生まれ、興福寺で法相を、醍醐寺で真言を、比叡山横川(よかわ)で天台を学んだ。1112(天永3)年ごろに中川寺を開いて拠点とし、南都戒律の復興に尽力。律宗総本山唐招提寺を再興し、華厳宗大本山東大寺の受戒作法を定めた。

 高野山に伝わる「南山進流声明」の祖と仰がれるほか、晩年は浄土教にも関心を寄せ、日本浄土教高祖六哲の一人に数えられる。

焼却場の計画乗り越え

 大規模な伽藍を形成していた中川寺は、応仁の乱後の1481(文明13)年、大和国を巡る筒井氏と古市氏の覇権争いに巻き込まれ、本堂以外を焼き払われた。戦国の世が終わり、江戸時代になっても再興されず、明治新政府によって廃寺とされ、姿を消した。

 関係者によると、実範上人御廟塔の一角だけは興福寺が管理しているが、跡地周辺は不動産会社が所有しているという。

 2013(平成25)年には、跡地周辺に奈良市のごみ焼却場建設計画が持ち上がり、近隣の浄瑠璃寺(京都府木津川市)や般若寺(奈良市)などが反対運動を展開。工藤良任・般若寺住職を代表として「浄瑠璃寺と当尾の里をまもる会」を立ち上げ、署名運動を展開した。当尾の里は、石仏群のある自然豊かな景勝地で知られる。

 反対運動には、当時の高野山真言宗宗務総長、添田隆昭氏をはじめ宗派を超えた僧侶らが加わり、故・瀬戸内寂聴氏らもこれに賛同した。活動のかいあって、奈良市は17年に建設を断念したが、地元関係者らは別の開発計画が持ち上がらないか懸念している。

 今回、初めて法要を企画した真言宗の僧侶有志らは「南山進流声明の故郷であるこの場所を、一人でも多くの人に知ってほしい」として、興福寺などが毎年9月10日に営んでいる命日法要を合同で勤めるか、同じ日に別途、行いたいとしている。

 飛鷹前官は「実範上人は、南都各山や真言宗寺院の大恩人。顕彰を続けたい」と話している。

中川寺 飛鷹猊下トリミング

顕彰に向けた意欲を語る飛鷹前官=昨年11月25日

【用語解説】神仏分離令(しんぶつぶんりれい=宗教全般)
 神社から仏教色を排除するために明治政府が1868年に出した法令。神道を国教化する狙いがあった。神社の別当・社僧に還俗(げんぞく)を命じたり、社前に仏具を置くことを禁じたりした。神仏判然令ともいう。

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