自分らしさってヤツには夜明けがあるのか
子どものころ、無邪気にしてた時の記憶がときどき蘇ってきます。
保育園のおゆうぎ会というのがあって、思い出の写真が残っているので、”それ”が本当の記憶なのか、それとも写真から連想して後付けに作ってしまった想いなのか、今では定かではありません。
”それ”とは、何十年も自分とともにある感情です。
『全身白いタイツ姿で同級生のお友だちと両手を斜めに決めポーズ!』
いまとなっては、だいぶ感情体験も色あせてきましたが、つい最近までできるなら消してしまいたい過去の記憶。
恥ずかしくて恥ずかしくて、その舞台に上がっている自分が本当に嫌でした。
”その体験”がきっかけかどうかは、わかりませんがとにかく人前に出ることが恥ずかしくて、発言する時も「ムニャムニャ」とはにかむシャイボーイ。
その当時の自分が、本音を伝えることができたとしたら、「その格好をするなら舞台には上がりたくない!」と言ったかもしれません。「おゆうぎ会なんて興味ないから外で遊んでていい?」って言ったかもしれません。
社会で求められることと、自分の本音で生きることは、今でも矛盾の中で選択せざるをえない状況は続いていると思います。
自分らしさってなんだろう?
「自分らしさ」を仮に「本音を表現すること」だとしたら、上の保育園の例では社会の要求には答えずに「好き勝手やること」のように考えてしまいます。
社会活動をすることと、本音で生きることとは、矛盾することなのだろうか?
この問いは、すずかつが10代のころ無意識に感じて過ごし、20代で社会とのズレとして問題意識に変わり、30代で少しばかりの解決策に見通しがついた課題です。
そして、40代の今、分人主義という考え方に出会い、自分らしさで生きることへの確信とともにいる今があります。
分人主義という考え方
分人とは
本音を理解してもらえる環境が、今の日本の日常にどれだけあるか?と問われるとほとんどないと思っています。今の学校教育の教室からみても、先生に向かって生徒が全員同じ向きで並んでいる風景がスタンダードな以上、本音を自由に言える環境ではない。
こんな話を長々としていても解決策にはならないけど、日常をみているときにちょっとした違和感を見逃さないでいることが、自分の中の本音を理解する一歩だと感じています。
その違和感が立ち上がった時こそ、分人主義というモノサシを当ててみる。
分人とは、相手や状況によって変わるいろいろな自分。
違和感がある自分を眺めてみると、自分が自然だと感じているものではない『何か』がそこにあることを直観的に気がついています。
その自分こそが分人を知る第一歩かなと。
普段の自分を一つ一つ分人に分けてみるのもいいですが、問題を感じているときの自分がもっともわかりやすい。
それは、2つ以上の感情が同時に立ち上がっているから、分けることでその感情がくっきりと感じられるのです。
こんな風に、日常を分人主義でみてみると、様々な感情がもつれて複雑な気持ちになっている時の自分がスッキリとして、生き心地が楽に感じられるのです。
今まで、分人主義を一緒に考えてきた仲間の声
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