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映画「街の上で」を観て思うこと。私たちは「明日には死ぬかもしれないし」と言わなければ生きていけない

2021年4月に公開された今泉力哉監督の映画「街の上で」を観た。下北沢の街を舞台に、そこで生きる人々の日常が描かれている映画だ。

「明日には死ぬかもしれないし」という言葉が頭に残った。自分も言ったことがある。「明日には死ぬかもしれないんだぜ」。他の人が言うのも聞いたことがある。なぜ私たちはその言葉を言うのか。「街の上で」を観て思うことを書く。

※一部セリフを引用していますが、脳のデキがいまいちなため細部の言い回しがうろ覚えです…。違っていたらすみません。
※物語の重要なシーンをネタバレしないようにと注意して書きますが、あらすじには触れているので、気になる方は薄目などでお読みください。

今や消失した「大きなストーリー」

後悔しないように、今を生きよう。私たちはしばしばそのように言ってきた。言い聞かせるように。将来のことを考えざるを得なくなったころから、私たちはそう言うようになった。なぜなら、将来のことを考えても、希望など何ひとつ見当たらなかったから。

私たちが生きる上で信じられる大きなストーリーは消失した。大きな会社に入って出世することは生きがいにならない。家長として家を継ぐこともイメージがつかないし、そもそもあまり強制されていない。

かといって、家族や社会から自由になれるわけではない。結婚するとなればお互いの家族に挨拶に行かなければならない。改姓をどうするかについても考えなければならない。家族や社会との関係性を全くのゼロにすることはできない。

家父長制のイデオロギーとも向き合わなければならない。家族を作るとすれば親世代のそうした考え方とも付き合わなければいけないし、会社でも上意下達の状況は変わらない。私たちはもうそのイデオロギーを信じられないのに。

人生を貫いて信じられる大きなストーリーを、もはや私たちは持っていない。未来はきっと明るくなるという希望を信じることができない。だから、将来のことなんてまともに考えていたら、生きていけないのだ。息がつまってしまう。そこで、今この瞬間だけにフォーカスし、快楽を求めることだけが、唯一の生になる。

あるいは、音楽や映画、漫画や小説など、今この場所を離れられる体験に身を委ねることが、ひとつの救いになる。レコード屋兼カフェCCCの店主は「文化ってすげえよなあ」と言う。「だって、残るじゃん。街は変わっていってしまうけど。」

「街の上で」はあまりにもリアルな日常を描く

登場人物たちが今にフォーカスした生を生きる映画のなかで、古書ビビビの店長だった川辺さんが亡くなったことを、カフェCCCの店主と主人公である古着屋の店主・青が話しているシーンでは、穏やかな時間が流れる。

カフェCCCの店主「死ぬ前の日に川辺さんがお昼どきにうちの店にやってきてさ…。そのとき満席だったんだよ。で、扉のところで、じゃあまたって川辺さんが手を挙げて……」

青「……」

カフェCCCの店主「もし川辺さんがそのとき、ここで昼ごはんを食べていたら、死んでなかったのかなって思うんだよ」

青「もしごはん食べてたとしたら、何食べてたんですかね、川辺さん」

過去を振り返り、もし○○であったら、と想像すること。後悔を、「もし○○であったら」という仮説の力を借りて、非日常の世界に昇華すること。そしてこのシーンは、2人が笑い合って終わる。

喪失は哀しくも、安らかに描かれる。一方で、残された生者たちは、今この瞬間の快楽を求める自分と、同じく今を生きる他者の間で振り回され、混沌のなかをもがきながら進む。

だから言う。「明日には死ぬかもしれないし」。そう言わないとやってられないのだ。将来のことなんて考えていたら、足が止まってしまう。

だから、本当は笑えるシーンでも笑えない。複雑な関係の男3人と女2人が鉢合わせするシーンも、決して笑えない。もしかしたら傍から見れば笑えるのかもしれないが、私たちには笑えない。あまりにも私たちと近すぎる。それは、私たちの姿だから。

私たちの生をあまりにもリアルに描いたこの作品は、フィクションだとは思えない。極めて身近でよくある話に思える。居酒屋で友達から聞く話のようにも思える。青が女の子と宅飲みするシーンなんかは、もはや自分たちが話している現場を、幽体離脱して客観的に眺めているようだった。

私たちはそれでも大きな物語を探し続けている

自分たちの姿が克明に描かれることによって見えてくるのは、希望ではなく絶望である。人間や社会への不信感である。生きることの苦しみである。

物語的にはハッピーエンドに見えても、否が応にも想像してしまうその先の未来には、苦悩の影が浮かぶ。だけど、私たちはそれでも生きていかなければならない。

これだけは書いておきたい。私たちは決して、将来のことを考えたくないわけではない。みんな、幸せに生きる道を模索している。社会に貢献することを考えている。反抗のための反抗をしているわけではないのだ。

ただ、どうにもならないことが多すぎる。信じられるものがなさすぎるのだ。私たちは現在にフォーカスした生のなかで、信じられる物語をいつも探し続けている。

(終)

▼映画『街の上で』公式サイト



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