ハエトリグモハンドブック増補改訂までの歩み
Author:須黒達巳(慶應義塾幼稚舎教諭)
映画でもマンガでも小説でも、ラストのクライマックスの後、「それから——」という具合に、物語の後の話が描かれるタイプの作品があります。あんなものは要らないのだ、という意見もあるでしょうけれど、これから私が書くのはまさにそんな「それから——」のお話です。
今から5年前、2017年の6月、『ハエトリグモハンドブック』を上梓しました。足かけ5年、日本各地を巡ってハエトリグモを集めまくり、すべて生きた状態で、姿勢や体型にまでこだわって撮影。多くの方の助けもあり、当時の日本産既知種105種のうち103種を掲載し、「できることはすべてやった渾身の一冊!」として出すことができました。本書や私自身を新聞に取り上げていただいたほか、講演や観察会の依頼も続き、「ハエトリグモ」を自分のアイデンティティの一部として、それを世に広めることに喜びを感じていました。
ところが、この本の制作に全身全霊を傾けすぎた私は、次第に「自分の人生で何か世の中に残すことができたものといえばこれ」「夢を叶えることができた」「もはや残りの人生はエピローグ」などと宣うようになり、27 歳にして一度燃え尽きてしまったのです。
私にとって『ハエトリグモハンドブック』の出版は、「好き」や「情熱」という名のたくさんの果実をつけた木を、チェーンソーで根元から伐って幹ごと切り売りしてしまったようなもので、後にはシーンと切り株が残っているだけだったのです。タイミング的に、仕事が忙しくなってきたことや、家庭を持ったことも無関係ではないのかもしれません。
一方で、ちょうどその頃から、「ハエトリグモの木」の隣に別の木が育ち始めました。 教員になってから、勤務校構内の昆虫・クモのファウナ調査を始めたのです。勤務校は東京都渋谷区恵比寿、市街地のど真ん中に位置しているのですが、調べてみると、なかなかどうして、じつに多くの虫たちが暮らしていることがわかりました。
現在も続いているこの調査では、種名を確定させることができた虫が900種以上に上ります。一部の分類群を除き、2020年度末までの分がリストとして出版されています(須黒 2022)。どんどん種数が伸びていくのが楽しくて、さまざまな虫を同定することに私は夢中になっていきました。 そうする中で、「同定という行為そのもの」についても考えることができ、それはそれで本にまとめることができました(須黒 2021)。
「学校の虫の木」が急速に育っていく傍ら、切り株となった私の「ハエトリグモの木」は枯れてしまったのでしょうか。決してそういうわけではないようです。以前のような太い幹ではないものの、切り株からひこばえが伸び、ちゃんと実をつけているのを感じます。「ハエトリはある程度集めきった」という感覚にある私にとって、モチベーションの果実をつけるきっかけになるのは、「未記載種」そして「自分では採っていないもの」です。
『ハエトリグモハンドブック』の後ろのほうに、それまでに確認していた未記載種を並べて掲載したページが あるのですが、本書の出版以降、これらに名前をつけるべく、いくつか論文を出してきました。中でも思い入れがあるのは、北海道の大雪山系に生息する「ユキガタハエトリ」。
この種は、生息地が天然記念物かつ国有林かつ国立公園の特別保護区であるため、採集をするために、文化庁、林野庁、環境省と書類のやり取りをして許可を得る必要がありました。調査の結果、ロシアに生息する種と同じものと判断したのですが、その体に散らされた白い模様に、生息地の景観の「雪形」を重ねて、「ユキガタハエトリ」の和名をつけました。
この5年間で、私以外にも何人かがハエトリグモの論文を書かれており、その結果、日本産種はユキガタハエトリを含め10種が追加されました。このたび、『ハエトリグモハンドブック』の3度目の増刷の声がかかり、この10種を加えられないかと担当編集者に相談したところ、「増補改訂版」として出版することになりました 。
追加の10種に加え、学名が変わった種を修正したり、分布が新たに判明したところを加筆したりと、アップデートされています。この5年間の日本のハエトリグモ研究の進捗として、初版をお持ちの方にもご覧いただければ幸いです。
そして、個人的に大いなる進捗として解説を書き換えたのが「ウデグロカタオカハエトリ」。この種は、本州の高地と北海道のみに分布し、採集例も非常に少なく、平たく言えば「珍しい」種です。
初版制作中、私はどこを探しても採ることができませんでしたが、2人の方がいずれも長野県で採集に成功し、生体を送ってもらって撮影することができたのでした。初版の解説には「この本に掲載したハエトリグモの中で唯一、著者が一度も採ったことがない」とあります。5年間血道を上げても、です。採集した2人の「笹やぶの地表にいる」という言葉を信じて、その後もトライしてはいたものの、なかなか出会えずにいました。
そして昨夏、ついに自分で採集することができました。明るめの笹やぶで、マダニを警戒しながら「土下座(ハエトリグモの採集ではありがちな姿勢)」を1時間ほど続け、なんとか雌雄1個体ずつを見つけたのです。ハエトリグモの採集で「っしゃ!」と声が出たのは久しぶりのことでした。
こうしてめでたく、「一度も採ったことがない」の記述を解説から削除しました。
……しかしこれでスッキリとはいきません。今度は新たに追加した中の1つ、「キョクトウゼブラハエトリ」が「自分で採集したことがない」のです! ハエトリグモを求める私の旅路はまだまだ終わらないようです。
1本の木を育て続けるのは簡単なことではありません。そうしようとして、できるものでもないでしょうし、それがすぐれた生き方ということでもありません。
私は常に何かしらの木を太く育てているタイプだと思いますが、切り株から生えたひこばえの「ハエトリグモの木」は、これからどうなっていくのか、自分でもわかりません。せっかくハエトリグモに面白くしてもらった人生なので、ひこばえでも、別の木を育てながらでも、この木を育て続けたいな、とは思っています。
まあでも、元の木が相ッ当な大きさだったので、この切り株は東京ドームくらいの径があって、ひこばえといってもてっぺんが見えないような巨木の出立ちなのかもしれませんけど、ね!
引用文献
須黒達巳 2021. 図鑑を見ても名前がわからないのはなぜか? 生き物の“同定”でつまずく理由を考えてみる. ベレ出版
須黒達巳 2022. 慶應義塾幼稚舎で記録された昆虫およびクモ. ニッチェ・ライフ, 9: 37–67.
Author Profile
須黒達巳(すぐろたつみ)
慶應義塾幼稚舎教諭。クモの分類学的研究の他、勤務校構内の昆虫・クモ相の調査に取り組んでいる。