ヴァチカンが最も恐れた影の幕閣・井上筑後守政重の講談的人物伝 関ヶ原の戦いから、敵方の娘を愛して子をなした失敗、秀忠公の番士となるまで

奥州、関ヶ原の戦い

 そして迎えた慶長5年(1600)。この年の1月から徳川家康公は、会津の上杉景勝公に何度か上洛するようにとの使者を送っておられました。景勝公は昨年10月頃、会津に帰国してから、城砦の整備や武器の調達など軍備の強化に努めていたのでございますが、これが「叛意あり」との風聞を生んだのでありまする。その噂の真偽を確かめるべく、大阪城におられました家康公は、景勝公を呼び寄せようとなさったのでございます。
 景勝公がこれを拒絶なさったことから、家康公は会津への出兵を決められて、6月16日大坂城を出立なさり、7月2日には江戸に到着、19日間江戸に留まる間に石田三成挙兵の報せを受けたのでございます。7月21日に家康公は江戸を出発して下野小山(栃木県小山市)に到着されたのは7月25日のこと。家康公は、ここ小山の須賀神社境内に仮御殿を建て、諸将を集め小山評定と呼ばれる軍議を開かれました。これはかつての源頼朝公が奥州に出陣なされたた際、ここ小山に軍営を置いた吉例に従ったためとも申します。
 この小山評定には上杉征伐に従っておられた徳川方の諸大名の他、豊臣家恩顧の大名方も多く顔を揃えておられました。やがて軍議が西へと引き返すことに決して、三成方と戦うこととなったのでございます。福島正則さま、池田輝政さまが先に出発し、8月中旬には尾張清州(愛知県清須市)に入られます。家康公は8月5日にいったんは江戸に戻られたものの、なおも上杉景勝公の動向や、豊臣系諸大名の向背を見極めようとされていたのでございます。
 この時、対上杉の前線となったのが、蒲生秀行さまのおられる宇都宮でございました。7月24日に家康公の次男・結城秀康さま、三男・秀忠公などが到着され、宇都宮城主、蒲生秀行さまが諸将を出迎えます。彼らはいずれも初陣となる若大将たちでございました。その周囲にはもちろん家康公と共に戦陣を疾駆した歴戦、老練の家臣たちが付き従います。この時の井上清兵衛政重さまは15歳となっておりました。いよいよ大きな戦が始まる、そんな思いに若い政重さまはわれ知らず興奮し、緊張していたことでございましょう。
 宇都宮城は奥州の山並みが切れて、平野となった地に築かれた平城でございます。奥州鎮護の北関東の要所でありますし、大軍が集結するには格好の場所でございました。政重さまも具足を身につけ太刀を佩いて、走り回っていたことでございましょうだ。あるいは忍び働きの一人として、どこかに身をやつしてひっそりと聞き耳を立てていたかもしれませぬ。
 家康公は宇都宮の守りとして、次男の結城秀康さまを大将として、副将に蒲生秀行さまを任じられ、2万5千の兵を預けられたのでございました。

干戈を交えぬ謀略戦

 宇都宮城から北へと張り出した前線基地としましては、大田原城、黒羽城(共に現在は大田原市内)が設けられておりました。大田原城も黒羽城も宇都宮城の北東約40キロにありまして、川に面し、街道筋を見おろすように作られて、お互いに8キロほどの距離を街道が繋いでおりまする。もし上杉勢が宇都宮を目指して殺到して来た時には、防衛線となりますのがこの大田原城-黒羽城ラインでございます。すでに大田原城には6月には普請奉行が歩卒千人とともに入り、大部隊の長期駐留を可能にするように修築が始まっておりました。
 一方の黒羽城には、服部保英さま配下の伊賀衆百人、岡部長盛さま配下の甲賀衆百人が入りまして、徳川方の情報収集基地となっておりました。上杉勢の動向を監視すると同時に、国境地域での調略や国人、土豪、百姓の動向を探るためでございます。もしアクション系の時代小説でありましたなら、ここで上杉忍者の軒猿と、井上清兵衛政重さまや伊賀、甲賀の忍びが、くのいちも交えて、熾烈な闇の戦いを繰り広げる姿を描くことでございましょう。
 一方、西への動向を眺めますと、三男の秀忠公には3万8千の兵が任せられ、8月24日に中山道経由で上方とへ向かわれます。
 家康公は、上杉景勝公が会津を動かないのを慎重に見切られるかのように、ようやく9月1日に江戸を出発され、9月13日には岐阜に入られます。9月14日には中山道を西に進み、大垣城を望む赤坂に陣を構えたのでございました。
 奥州の関ヶ原の戦いは、7月24日~25日の白石城の戦い、7月24日の河股城の戦い、9月13日の畑谷城の戦い、9月17日の上山の戦い、9月15日~10月1日の長谷堂城の戦いがあったものの、宇都宮城を中心とした徳川勢が上杉勢と直接に大規模な干戈を交えることはございませんでした。
 この戦いは、結果的に戦わずして上杉景勝公の関東への侵攻を押さえ込み、孫子に言う「上兵は謀を伐つ」ものとなったのでございます。実際に太刀を振るって戦うことのなかった情報戦、謀略戦、つまり忍びいくさが、井上清兵衛政重さまの初陣となったのでございます。老練な徳川家康公の戦わずして戦い、兵を出来るかぎり損なわず勝ちを収める見事な軍略を目の当たりにした若い政重さまにとって、この奥州・関ヶ原の戦いは、彼の一生に大きな影響を与えたことでございましょう。
 天下分け目の関ヶ原の戦いは9月15日。その東軍の捷報が宇都宮に届いたのは9月27日あたりと言われております。

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