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食べ物リスト


お風呂で、猫と一緒に內田 百閒(うちだ ひゃっけん)の『御馳走帖』を読んでいた。飼っている猫が、敦のそばに居たがっている。湯船の上にカバーを乗せ、その上にタオルを敷く。そこに隙間ができるので、雄猫が横たわる。もう一匹、雌猫がいるが、どちらかと言うと大人しいので妻の瑠璃子と一緒に過ごすことが多い。見事に男女で分かれいると笑ってしまう。

内田百閒は、食通でも、美食家でもない、酒の肴を求めていた食いしん坊。内田に共感を持った敦。「朝はミルクにビスケット、昼はもり蕎麦、夜は山海の珍味に舌鼓をうつ」ような作家だ。

「なんか似てると思う」嬉しくなった。特に『餓鬼道肴蔬目録(がきどうこうそもくろく)』は、食べ物の名前を列挙したもので、戦時中の為、食べるものがどんどん無くなっていく中、せめておいしいものを思い浮かべ、書き出されたリストは圧巻だ。ただただ「あじ一塩」「小はぜ佃煮」「くさや」「さらしくじら」という具合に縦書きで列挙されているリストだが、文章より魅了される。
註にカタカナ文なので読みづらいが、こんな事が書いてあった。『蔬』とは、青菜のことらしい。


「昭和十九年夏初メ段段食ベルモノガ無クナッタノデ
セメテ記憶ノ中カラウマイ物食ベタイ物ノ名前ダケデ
モ探シ出シテ見ヨウト思イツイテコノ目録ヲ作ッタ
昭和十九年六月一日昼日本郵船ノ自室ニテ記」

敦は、食に対する拘りが無い。しかし、こんなリストが書けたら、楽しいと思う。
「延々と食べたいものを列挙するだけなのに、感動する。献立表でもなく、レシピでもない。なのに、「まぐろ 霜降りとろのブツ切り」と書くだけで美味しさまで伝わる。「油揚げの焼き立て」と庶民の食べ物でさえ美味しく見立てる。

敦も日記帳を持っている。毎年、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、パブロ・ピカソ、 アーネスト・ヘミングウェイなどが愛用した「モレスキン」のデイリーダイアリーを2004年から使っている。と言うより持っていると言う方が正しい。本当は、イラストやカットを上手く書けたら、グーンと手帳がポップになるのにと思っている。

敦が初めてモスクワ経由でヨーロッパに行ったときに、イラストレーターの夫婦とウイーンまで一緒になった。その後は、一人旅になるが、共産国を渡り切るまでの不安が拭た。大阪のやたら元気な青年と四人で横浜からナホトカ港まで船旅で、ナホトカから陸路でハバロフスクに行き、ハバロフスクから空路でモスクワに着き、鉄道でウィーンに着く格安のツアーがあった。五木寛之の「モスクワ愚連隊」が大流行して、モスクワ経由のツアーの人気が急上昇した。

敦は、当時のことを鮮明に覚えている。富豪夫妻の船内のレストランの食事のマナーナイフとフォークの使い方から食べ方まで盗み見した。その仕草さは、映画のシーンのように衝撃的なエレガントさを醸し出していた。日本人は、いく先々で出てくる酸味の強い黒パンに悩まされていた。

イラストレーター夫妻が、ノォトに簡単に絵を描いていた。スラスラとスケッチを描く姿に、敦は驚きと羨望を感じた。食事だったり、モスクワの風景や人たちだったりした。写真でパシャと収めると違う魅力を感じた。彼らに影響されて、スイスのアペンツェルンやマンチェスター、スコットランドで敦は、固形クレヨンでスケッチをした。大勢の通行人に見られても、外国ということで下手でも気にならなくなっていた。むしろ、大勢の人たちに覗き込まれることで、絵が加速して上達した。

そんな思い出とともに、絵を描くことは辞めたが、日記帳だけは、そばに置いてある。百聞のように食い物リストを記すだけでも、思い出になりそうだと思った。
記録と記憶は、残す意識と薄れる意識の違いがある。フラれた記憶は日を追うごとに薄れているが、」それを記録すると後世に残る。

どちらにしても、墓場まで持っていくものが多い。それが家族にとっても、一番幸せなことだと敦は思った。大した思い出でもない奴に限って、敦のように大袈裟にいうものだ。


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