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金沢と犀星と九谷焼



敦の大学生の頃は、目的もなく彷徨う子羊であった。何をすればいいのかも分からず彷徨っていた。そんな時、金沢に行ってみたくなった。北陸の厳しい自然の中で自分を鍛え直す意味もあって、大した知識もないのに、本で見つけた九谷焼の窯元に行っていた。九谷焼の特徴は、「呉須(ごす)」とよばれる黒色で線描き(骨描き)し、「五彩」とよばれる、赤・黄・緑・紫・紺青の5色での絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法で有名だった。敦は、本来、九谷焼のような豪華絢爛なデザインが好きではなかったはずだ。それなのに、突然狂ったように弟子入りを懇願していた。無論、世襲制の窯元で、大家になれるわけでも無い。本当に、思い付きで訪ねただけだった。

大して、話の内容も思い出すことすらできないまま、金沢観光をしていた。笑い話である。兼六園や妙立寺などの行った。妙立寺は「忍者寺」と呼ばれ、落とし穴になる賽銭箱、床板をまくると出現する隠し階段、金沢城への抜け道が整備されていたとされる井戸などの仕掛けが、寺のあちこちで見られる寺だ。外観は2階建てだが、実際は7層になっていて、23部屋と29階段もあるマジカルハウスだった。夜は、繁華街の片町に繰り出した。まるで観光旅行になってしまった経験がある。友達五人でドライブに来たこともある金沢なので、地理的に混乱することもなかった。小京都と言われる金沢は、結婚してからも家族旅行に来たことがあった。「金沢21世紀美術館」や香林坊など周辺を歩いた。江戸時代の景観が残る長者武家屋敷跡は、特に印象深かった。水路があって、なんとも風情があった。モダンな茶屋で昼飯を食べたことをおもだした。金沢は、ショートステイを含めると5〜6回は行っている町であった。まだ、東京に事務所があった頃、瑠璃子を夏休みに能登半島一周のドライブを決行した時も最後は、金沢で泊まった。夜に小京都の雰囲気を飲み屋で味わった。

そんな折、敦が湯船に浸かりながら読んだのは金沢出身の室生犀星の短編小説『幼年時代』だった。1919年(大正8年)の『中央公論』8月号に発表された室生の処女作である。七歳から十三歳までの子ども時代の思い出が書かれている幼年時代は、幼いころに養子に出された実体験に基づいたフィクションだ。父の死んだ後に家を追い出された実母は行方不明。封建時代のまま、女は三界に家無しで、何も無しで、追い出される。その母を想って、寺の養子になり、供養する毎日だった。最初の養子になった家に出戻りの姉と慕う優しい女性がいた。彼女のお陰で救われた主人公であったが、また、嫁に行ってしまう。全てを失った彼の辛すぎる心情が、伝わってくると敦は思った。

小説の中で、川から拾ってきた地蔵を家の庭に置いたシーンは忘れないほど衝撃だった。それを家族全員が地蔵の周りに台座を作ったり、その周りに草花を植えたり花筒を作ったり、庭の果実を供えたりした。継母がお堂を建てるまで、話が大きくなっていた。このシーンで何か、一つの宗教的な感覚の物事が始まると家族全員が協力し合う姿を見た。特に姉は、赤い布で衣を縫ったり、小さな頭巾を作ったりした。それこそが、地蔵を通した家族の連携であった。何か羨ましいほどの光景が広がっていた。

室生犀星の数奇を極めた生い立ちを考えるとこの小説の平和で美しい家族愛に満ち満ちた感覚は、犀星が夢にみた光景だったような気がしてらなかった。敦は、幸せな幼年時代を過ごせた幸せ者だと痛感する。慈愛に満ちた人生は、多くの人たちが味わうことすらできないまま一生を閉じてしまう。敦とて同じだ。どんな悲惨で逆境に立たされていても、夢を見ることは大切だと痛感する。彼の壮絶な幼年期が、美しく飾られた『幼年時代』であった。金沢が好きだという敦も、北陸の厳しい自然の中で育った犀星が好きだった。それを作った金沢が好きだ。金沢の面白さが、敦を支配している。九谷焼の面白さは、今でも解らない。きっと日本海の厳しさに負けない絢爛豪華さに圧倒されているからだろうか。それも魅力の一つだ。

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