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風船と蜘蛛


 晩夏の候、例の彼女とはいかがお過ごしでしょうか。うまくいっていますか。くたばれ。
 ご存知かもしれませんが、わたしは、あの後いろいろとあり、ほかの人たちもいろいろお騒がせして、いまは実家に帰って、しばらくおとなしくすることにしました。こちらはどちらを見ても山のみどりばかりで、あまり人間が(年寄り以外)見当たりません。今後どうするかはまだわかりません。
 この前は、突然のことでわたしも気が動転していて、ひどく取り乱して、あのようなことになってしまいました。きみが、泣いてるわたしをひとり残して帰ったあと、わたしは、急にくやしいような、さみしいような気持ちになって、今回のことはすべてわたしが悪かったのだと、ひとり、自分を責め続けていました。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう、わたしの何がいけなかったんだろう、どうしたら、これからもきみと一緒にいられたのだろうと、月並みのことを、あたかも「この世界にわたしだけのたった一つの重大な悲愴」のように考え、考えに考え、自ら傷つきに傷つき、結果このようなことになってしまいました。
 かえって、みっともないくらいに、怪我の方はなんともありませんでした。でも、大事をとって一晩入院ということになって、なんだか恥ずかしくて、よけいに悲しくなり、看護婦さんを相手にちょっと暴れてみたりもしました。わたしのような人間は世界にはありふれているようで、病院の人たちは、ひどく迷惑そうに、手慣れた感じの対応をしてくれました。

 次の日は、いろんな人が様子を見にきてくれました。いちばん乗りはきみの友人? の小太りくんでした。彼が丁重に名乗っていたのは覚えているんだけど、ちょっと名前がはっきり思い出せません。丸刈りのデブです。わかるでしょ? ほんとうに朝早くて、わたしはまだねむっていて、とても迷惑でした。
 小太りくんのシャツは、胸のあたりまで汗でべちょべちょでした。おでこのあたりにも新しい汗が、大粒のたまになってキラキラとしていました。彼は、それをハンカチでおさえながら、「おかげんはいかがでしょう」と聞いて、わたしは「お騒がせしました」と殊勝な感じで答えてみました。
 彼は小さな白い花の花束を持ってきて、哀しそうな顔をして見せ、それから、そのよくわからない、薄い緑と白い花の名前を口にして、恥ずかしそうにしていました。わたしはそれを見ていて、とても痛々しい、なんともやりきれない気持ちになったんです。
「なんと言ったらいいんでしょうか……」と、とても深刻そうに前置きをして、「ジブンは貴女のことがとても心配です。身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり、と言います。どうかご自身のお体をもっと大切にしてください。ご実家のご両親もさぞご心配なされるでしょう」
 彼は自分の言葉に興奮した様子で、声音は哀しそうにしながらも、なんとなくいきいきとしながら喋りました。たぶん、人は「なんと言ったらいい」のかわからないときは、何も言わないのがいちばんなのだろうと思います。でも、「しんたいはっぷ」という言葉はなんだか音がかわいくて気にいりました。
 体を大事にするというのは、その通りだなと思ったし、お父さんやお母さんのことも、思い出してもうしわけない気にもなりました。だからこそ、正しいけど、まだここでは聞きたくなかったし、発言としては余計なのです。
 わたしが、手首の包帯をさすりながら、黙り込んでいると、彼は次第におろおろしはじめて、帰っていきました。小太りくんは、きっと根は善良な人なので、余計なことを言わないで、なおかつ、わたしの「オカラダ」をジロジロ見るくせを無くしてくれたら、もう少し優しくしてあげられるかもしれません。

 わたしがそんなふうに小太りくんのことを考えていると、彼の持ってきた花束の中から、ほんとうに小さくて、黒い何かが這い出てきました。わたしはとっさに、テーブルの上のその花束を床に払い落としました。リノリウムの床に転がった花束の、白いセロファンの間から、一匹の小さな蜘蛛が出てきたのが見えました。
 わたしははじめ、それを誰かに片付けてもらおうかとも思いました。視界にいて気持ちのいいものではないからです。でも、小さな蜘蛛一匹で、ナースコールのボタンを押すのはなんとなく気が引けたんです。昨晩のことも思い出して、ちょっと恥ずかしくなっていました。花束を見ると、さっき帰った小太りくんの顔が頭に浮かび、自分に酔っているのはわたしも同じではないかと思えたことも、わたしを動きづらくさせました。
 そうして、わたしはしばらくの間、小さな黒い点のような、その蜘蛛の動きをじっと目で追っていました。蜘蛛は、素早く一直線に、ある程度すすむと、そこでまたピタッと止まってしばらく動きません。そうしてまた、シュッと進んで、じっとして。それを繰り返しました。過敏になっていたわたしの神経は、小さな黒い影の、その落ち着きのない動き方に、ぼんやりとした不安を覚えました。
 蜘蛛は、壁を這い、病室の天井まで登ると、そのすみっこのほうで動かなくなりました。わたしはまたしばらくすると動き出すかな、と思い見つめていたんだけど、そこからはまったく動かなくなりました。
 看護婦さんがやってきて、「傷はいたむ?」と聞かれたりしたけど、わたしはその間もぼうっと蜘蛛を眺めていたから、返事もいいかげんで、ちょっとまだ気が変なのだと思われたみたいでした。たしかにすこし変かもしれないけど、わたしは蜘蛛を見つめているだけだったんです。
 お昼頃からは、サークルやゼミの人たちがきてくれました。わたしは、先輩やみんなと話しながらも、天井のすみでじっとしている蜘蛛のことを、ずっと気にかけていましたが、誰もその蜘蛛に気がつきませんでした。ひょっとしたら、あの蜘蛛はわたしにしか見えていないのではないか、そんな気がしてきたんです。

 四時ごろに両親がやってきました。お父さんはひどく興奮していて、ちょっと怖い顔をしていたけど、わたしのことを抱きしめると、よかった、よかったと言って、しまいにはおいおい泣き出しました。わたしはすごく恥ずかしかったんだけど、とても悪いことをしてしまったような気がしてきて、一緒に泣いちゃった。お母さんは、わたしの手をとって、傷のあるところを撫でながら、「あとが残らないといいんだけど」と言っていました。
 わたしは、ふと気になって天井の隅を見やりました。先ほどまでそこにいたはずの蜘蛛の姿は見当たりませんでした。
「何を見てるんだ?」
 お父さんはそう尋ねて、わたしと一緒に同じ方を見つめていました。
「さっきまで、あそこにね、小さな蜘蛛がいたの」
 わたしはそういうと、自分が小さな子供になったような気持ちがして、なんだか安心しました。でも、かえって両親は互いに顔を見合わせると、わたしのことを心配そうな顔つきで見つめてきました。わたしには、それがさみしくて、悔しい気もしました。そこに蜘蛛が残っていないことがとても残念に思われたんです。それは、あの黒い小さな影が、ほかの人にも見えているのかどうか、結局は、わからなくなってしまったからです。

 お父さんたちは、仕事を休んで車で来ていました。会計やら、手続きやらを済ませてもらい、わたしは、そのまま両親に引き取られて、実家に帰ることになりました。
 車に乗ると、お父さんは「おなか空いてないか」と聞いてきます。同じことを何度も聞かれるので、わたしはだんだん、うんざりしてきました。
 高速に入って、はじめのサービスエリアを通るときに、「なにか食べていくか」と言うので、「お父さんが食べたいなら、いいよ」と、すこし怒って答えました。お父さんは「おまえが心配なんだよ」と言ってきて、それがもうダメでした。
「うるさい!」と叫んで、わたしは、目の前の助手席のシートを思いっきり蹴飛ばしました。何度もけって、泣き出してしまいました。泣き出したのは、こんなしょうもないことで、感情を抑えられなくなったことが、くやしくて、なさけなかったからです。
「梨紗ちゃん!」と言って、お母さんがわたしを抱きしめました。サービスエリアに入ると、お父さんはしずかに車から降りて、とぼとぼと、どこかへ歩いて行きました。その後ろ姿はとても歳を取っているように見えて、わたしを抱きしめるお母さんの髪も、ずいぶんと痩せて、薄くなったような気がしたんです。
 わたしたちの車のそばを、若い夫婦の家族連れがとおって行きました。母親は、男の子らしき赤ちゃんの乗ったベビーカーを押していて、父親は白いワンピースを着た小さな女の子を抱っこしていました。そこは、ちょっと大きなサービスエリアで、その日はなにか催しものがあったのか、女の子は、ヘリウムガスの風船を嬉しそうに、持っていました。
 父親が、その女の子を抱き直そうと、すこしゆすり上げると、女の子の手から、銀色の風船が宙へと飛んで行きました。肩の上で暴れる女の子を、父親は必死に押さえつけていました。その泣きじゃくる小さな女の子を見つめながら、わたしはだんだんと、いまの自分の姿を見ているような気持ちがしてきました。
「梨紗もちいさいころ、風船飛ばして泣いたねえ。遊園地で買った、イルカのやつ。忘れちゃったか」
 お母さんの言葉をなぞるように、今となってはほんとうにあったかどうかもわからない、幼い日の風景を、わたしは心に浮かべていました。それは、家族三人で、地元の小さな遊園地に遊びに行ったときのことで、わたしは帰り際に、イルカの形をしたアルミの風船を買ってもらったんです。とても嬉しくて、はしゃいで、走りまわり、転んだ拍子に、わたしはその風船を離してしまいました。
 車の窓から、ひとつの風船が空へとのぼっていくのが見えました。ちいさな銀色の点は、ぐんぐんと、夏の空へ吸い込まれていき、さいごには星のように見えました。わたしはそれを、母に抱きしめられながら、ぼんやりと眺めていました。肩に伝わる母の体温だけが熱く、とてもしずかでした。
 わたしは、その風船が空へ消えていくのを見つめながら、それまでの苦しみとか、悲しみとか、そういったものが全部、急にばかばかしく思えてきたんです。そうして、きみにもあの風船を見て欲しかったと思ったんです。

 今朝、わたしの部屋に蜘蛛が出ました。こんな山奥だから、蜘蛛ぐらいいくらでも出ます。わたしはまだ布団の中で、蜘蛛は枕元をゆっくり歩いていました。わたしはそれを、じっと見つめていました。ちいさな黒っぽい蜘蛛で、よく見ると背中に白い模様が見えました。
 わたしは、ちょうど起こしにきてくれたお母さんに、「ねえ、見て蜘蛛がいる」っていってみたんです。「あんた、そんなちいさいのが怖いの」って笑いながら、お母さんはティッシュでつまんで、窓の外へ逃がしてしまいました。わたしはすこしだけ、小太りくんのことを思い出して、おかしく思いました。
 カーテンが開けられて、向かいの山の木々の緑が目にまぶしくうつりました。朝露に湿った土の匂いと、鳥の声が、開け放たれた窓からなだれ込んできます。わたしはそのとき布団の中で、手紙を書こうと思ったのです。
 いまはもう、あまりかなしくありません。ただ、すこしだけ怒っています。きみにもいろいろと事情はあったのでしょうが、きみはわたしに嘘をついていて、わたしを欺いたことには変わりはありません。やっぱり、悪いのはきみなんだ。でも、それももういいんです。わたしたちの前を、いくつかの風船が飛んでいったに過ぎないのです。

 お手紙の最後に、どうぞご自愛なさるようにと、書こうかとも思いましたが、ご自分のことは大切にしすぎるくらい大切にするきみのことですので、それもいらないと思い、やめにします。次からはもう少し、ひとのことも大事にした方がいいと思いますよ。かしこ。

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