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赤いユキ

 ど、ろ、ぼ、う。左目にガーゼの眼帯をしたYちゃんが言った。ぼくの鼻をつまんで。ぽかんと口と開けたまま、ぼくはYちゃんの髪の毛を見ていた。モサモサした短めの髪の毛は、さわったらきっと硬いんだろう。白い指がすこし冷たい。
「わたしのケシゴム盗んだろ。水色のカドケシ」
「ひらばいよ。づすんでばい」
 それは全く身に覚えのないことだった。Yちゃんは、ぼくの鼻を思いっきり引っ張ると、ようやく離してくれた。
「ほんとうに知らないよ」
「ぜったい盗んだ。この前のボールペンもじゃん」
 怒っているのと、眼帯で片目が見えないのとで、いつもより顔が怖く見える。反対側の目はいつも通り、まつ毛が長くて、大きな黒目をしているからかわいいと思う。
 ぼくは二ヶ月前から、火曜日の国語のクラスでYちゃんの隣の席になった。金曜日の算数は別のクラスだけど、それからちょっとずつ話をするようになったので、週に二日の塾のある日が楽しみでしょうがない。だけど、ときどき、Yちゃんは怒る。
「こいつ泥棒だから、資料室に閉じ込めて」
 Yちゃんと同じ小学校の村田くんに、首を抱え込まれて、廊下の突き当たりにある小さな倉庫に連れて行かれた。村田くんは背が高くて、力が強いし、ずっと前からぼくにこういうことをする。おとなしくしているとひどいことはされない。
「白状して、ちゃんと返すなら出してやるよ」
 ニタニタ笑いながら村田くんは言う。引き戸が勢いよく閉められて、真っ暗闇の中に、たんっ、という硬い音がいつまでも響いていた。ぼくは、積み上げられた段ボールの隙間に入ってしばらく体を丸めていた。静かだった。寒いけど、柔らかい泥の中に浮かんでいるような気持ちになる。村田くんは、まだ扉の外にいるだろうか。Yちゃんを待った。いつも授業が始まる前には来てくれる。上着は教室で脱いでいたから体が冷えて、鼻の穴がじんと痛んだ。「今夜は雪が降るかもね」送りの車でママの言ってたことを思い出した。
 資料室が寒かったせいか、暖房が暑すぎるくらいで、席に着くと、背中がチクチク痒かった。教室に戻ると、Yちゃんはもうケシゴムのことは言わなくなった。ぼくが眼帯のことを聞くと、すこし笑いながら、左手の指で白いガーゼを軽く押えた。
「これ? 結膜炎って」
「早く治るといいね」
 細長い指がのびてきて、ぼくのまぶたをそっと下ろした。押えられた右の目玉が重たかった。世界の半分が、かすかに赤いくらがりになっていく。「これね、うつるんだよ」白い顔が笑っていた。

 帰り道、窓の外を白いものがふわふわと舞い始めた。「あ、やっぱり、雪降った」と低い声でママが呟く。家が近くなるにつれて、雪は激しくなっていく。小さな山に囲まれた川沿いの道には街灯がない。車のライトが闇を丸く切り取ったその中で、揺れながら消えたり現れたりする白い光のつぶを見ていると、また背中が痒くなりそうな気がしてくる。
「明日は、ママ、早くおうち出るからね。あんたも早く寝なさいよ」
「結膜炎って、なに?」
「ええ? あんたも罹ったことあるでしょ。目がね、赤く腫れて膿が出て、夏とかプールでうつされて……」雪がひどくなるので、ワイパーを動かす。「誰か、結膜炎?」
「Yちゃんが眼帯してて、結膜炎だって」
「とにかく、早く寝て、朝ちゃんと起きてね、ぐずらないで」
 家の前の道路はすでにうっすらと白くなっていた。ママは屋根のある方へ車を止める。荷物を降ろすから先に入ってなさいと、鍵を渡された。ぼくが玄関を開けていると、ママがトランクから「ふようど」の袋を運び出しているのが見えた。道の上では白が濃くなってゆく。
 ママはぼくに早くお風呂に入ってしまうように言った。シャワーの勢いを一番強くしてから、Yちゃんのことを考えた。自分で鼻をつまんでみる。水色のカドケシのことも思い浮かべる。Yちゃんは、まだぼくが盗んだと思っているのだろうか。お湯がすこし熱くなった。お風呂場が天井まで湯気に包まれていく。目の前の鏡もわからなくなり、ぼくは、自分の体を見失う。シャワーの頭を手で強く握って、お湯の出口を小さくすると、さらに勢いが強くなった。体が熱くなって、つま先と背中に細い針でつつかれるような痛痒さがやってくる。
 右眼を押える。軽く力を入れて押してみる。目の前が半分赤くなった。湯気の中からガーゼの眼帯をしたYちゃんの顔が浮かび上がる。膿が滲(にじ)んでガーゼの下の方が黄ばんでいる。どこからともなく白い手が伸びて、眼帯のテープを剥がしていった。細い指につままれた眼帯は溶けて、白い煙になり、湯気の中に吸い込まれていく。
 Yちゃんの目玉はどろどろに崩れていた。腫れ上がったまぶたの間には赤い空洞がのぞいている。顔が近づいてくる。空洞の奥で黒い瞳だけが残り、ぼくを見つめている。背中の痒みが一瞬突き刺すような痛みに変わり、握っていたシャワーを落としてしまった。肩で息をしながらお湯を止めると、全てが消えていった。
「なんか音したけど、大丈夫?」
「大丈夫」
 扉の向こうで影が動いている。いつまで入ってんの、と怒られた。パジャマに着替えて、歯を磨いても、心臓の音は速いままで、頭はぼおっとしていた。ぼくは部屋に上がると机の引き出しを開けた。Yちゃんのケシゴム。

 車が曲がるのが揺れ方でわかる。帰り道のために何回曲がったか、初めは数えていたけど、諦めてしまった。「あやまったら、許してもらえるから」ママは悲しそうにぼくを見つめている。知らない男が運転している。後部座席で頭を膝の上に抱かれたまま、ぼくは車の天井だけを眺めていた。外では雪がちょっとだけ降っているようだった。
「この辺にしようよ」
「いいや、もっと先だよ。一人じゃ絶対に帰ってこられないよ」
 男が答えた。もうずいぶん、家から離れてしまったように思えた。「あそこで、背の高い女の人がおいでおいでしてるよ」ちゃんとあやまればおうちに帰れる。「ほら、手が。怖いでしょ?」「枯れ木だよ」ぼくはどうして怒られているのか、うまく思い出せない。だからあやまりたくはなかった。
「こわくない」
 男が車を停めた。ぼくは悪いことをしたので、山に捨てられる。
「この靴は、ママたちが買ってあげたものだから、返してね」
「いいよ。いらない」
 ママはぼくの靴を脱がし、男が外からドアを開けてぼくを引きずり出した。古い雪が溶け出して、地面はぬかるんでいた。ぼくは冷たい泥の上に転がされ、車は向きを変えてゆっくりと走り出した。涙が溢れてくる。
「やっぱり、いや! 帰して! ごめんなさい」
 テールランプが辺りの雪を赤く照らしていた。赤い光に照らされたところ以外は何も見えない暗闇だった。必死に走る。靴下は水を吸って、岩や木の根を踏むたびに、ぼくは叫んだ。赤く染まった冷たい泥の上に倒れこんで、ぼくはママを呼び続ける。
「熱あるから、学校休みなね。ママも仕事休ませてもらったから」
「背中かゆい」
 ママの手がパジャマの中に入ってくる。すごく冷たい手に背中を掻かれながら、ぼくはまた眠ってしまった。「外ね、雪積もってるよ」ママの声がする。

 ガードレールのそばには先週の雪がまだ残っていた。子どもに踏み荒らされ、車の排気ガスや砂埃で、じゅるじゅるに溶けかかって汚れている。古くなって、水の染み出したヨーグルトにも似たそれらに、ぼくは心あたりがあった。Yちゃんの結膜炎は治っていた。かわりに、今度は村田くんが眼帯をしている。村田くんには眼帯がよく似合うので、悪くないと思った。
「目よくなって、よかったね」
「今、宿題やってんだけど」
「ケシゴムは、見つかった?」
「お前が、盗んだんでしょ。早く返してよ」
 Yちゃんは、まだすこし怒っているみたいだ。シャーペンの後ろについた小さな消しゴムでテキストをこすっている。うまく消せないようで、だんだんテキストがくちゃくちゃに黒ずんでいく。Yちゃんは、小さく舌打ちをすると、背筋を伸ばしてぼくのことを睨んだ。
「ケシゴムかしてよ」
 突き出された手のひらは透き通るように白かった。背中がチクチク痒くなる。ぼくのケシゴムを使うYちゃんの手には、人差し指と親指の付け根のあたりに、ほの赤いしっしんがあった。


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