70,71/101(xissa)

気づかれないように怒っている

駐車した隣の車に犬がいた。車中で飼い主を待っている。飼い主が消えていったであろう方向に長い鼻筋を合わせ、微動だにしない。ビスケットのような色の、長毛の美しい犬だ。鳴きもしないし、鼻をガラスに押し付けた痕跡もない。こちらを見る気配もない。好奇心旺盛で活発な性質と言われる犬が、動くものに興味を示さない。車を降りて私は犬の隣に立つ。犬は私を見ない。意識は間違いなくこちらを向いているが絶対に目は合わさない。見ないように、見ないように自分を制御しているのがわかる。ぼんやりと蛍光灯がともる薄暗い地下駐車場で、私は犬に見て見ぬふりをされている。ぶしつけに私は犬を見る。犬は決して私を見ない。犬と私の間には静かな均衡が保たれている。
鼻先に皺を寄せ、ちらちらと歯をのぞかせながらも犬は目を逸らし続けた。犬の中で野性と理性がせめぎ合っている。そして多分限界に近い。野性を殺しても守るべき生活があの犬にはあるのだ。申し訳なくなり私はそのままそっと後ずさった。車中の犬が体勢を崩さず視線も外したまま、あからさまに安堵の雰囲気を醸したのが見えた。


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最短距離に橋がない

古い町なので区画に計画性がない。道が割とめちゃめちゃだ。山にしがみついたような町の真ん中に電車を通したせいで垂直方向にも道が重なる複雑さもある。いたるところに高架や歩道橋がかかり、どこへ続いているのかわからない階段があちこちに伸びている。Y字路も多い。スーパーの前の道は大きなY字路だ。左右の道には高低差がある。スーパー側からは階段を使って三角洲に降りる。三角洲は公園で、大雑把な台形の中に象の形をしたすべり台とペンキが剥げた地味なブランコが設置されている。桜の木も数本植えてある。ちょっと離れて集会場がある。鋭角の部分は花壇だ。上の道路が引っかかって午前中しか陽が当たらない。ガラス瓶を並べて埋めた囲いがある。

この囲いを作った人を知っている。ここに住んでいた人だ。名前は知らない。右と左の道が傾いてぶつかる接点を削るように住んでいた。傾いた土地に段ボールを折りシートを張って作った簡素な小屋が彼の家だった。その頃はまだ集会場はなく、薄ぼんやりとした公園のいちばん隅が突然くっきりと目をひいた。彼はどこからか集めてきた酒の瓶を埋め、公園と自分のすみかとの間に線を引いていた。
彼が埋めたガラス瓶は全て緑色で統一されていた。地面に突き刺さった瓶はきれいに並んで、天気の良い日にはのんびり陽に照らされていた。彼の姿を見ることはほとんどなかった。違法には違いなかったが、ガードレールに囲われ、瓶で区切られた鋭角はまぎれもなく彼のあたたかな家だった。

緑色の垣根を越える者は大人も子供もいなかった。近寄りもしなかった。彼もそうだ。目も合わせず黙ったままお互いの区切りを認識し、お互いがその向こうを見て見ぬふりをしていた。

彼がいたのは秋から冬にかけてのほんの少しの間だった。段ボールの家がなくなっていて気がついた。そこにあったものがなくなった、という中身のない事実だけが残って、あとは本当に何もなかった。彼の住んでいた角をガードレール側からのぞき見た。ただの斜面だった。緑色の瓶の区切りは残っていた。

住居跡はずいぶん長くほったらかしになっていたが、今年、そのそばに集会場が建った。残ったままのガラス瓶の区切りはすっかり土に馴染み、その空き地に花を植える人が出てきた。

なんの疑問もなくガラス瓶でできた緑の柵は花壇の囲いとして使われている。近くで見ると色だけでなく、瓶の形も揃えて埋めてある。彼は今、どこにいるのだろう。三角形の花壇には黄水仙が花盛りだ。

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