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願いのこもった名で重い


オリンピックをテレビで見るたびに母は、うちの子供も金メダルを取るような子だったらよかったのに、と言っていた。運動に秀でた家系であるとか母が何かの選手だったとかそういうことは何もない。4年ごとに繰り返されて慣れてしまったが、子供の頃は気に病んだ。私は逆上がりもできない筋金入りの運動のできない子供だったからだ。

母はスポーツ中継を見るのが好きだった。次の朝には新聞に載っている選手の写真を切り抜いて台所の壁に貼る。オリンピックの時には壁が見えなくなるほど切り抜きが貼られた。うちの子もこうだったらよかったのに、と母はそれらを眺めながら食事の支度をしていた。期間中は切り抜きに囲まれて私は食事をした。

私にとって12回目のオリンピックが始まった。母は今年もテレビ観戦を楽しんでいる。日本がメダルを取った翌日には電話をかけてきて、うちの子もああだったらよかったのに、と言っている。夜勤明けの洗濯機をまわしながらあいづちだけ打っている。

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ピンで留めた蝶を飼う


家庭教師を受け持っていた女の子が亡くなった。いつも通り授業に行くと玄関先の様子が変だった。通夜が営まれていた。弔問客の制服の多さに嫌な気がした。果たして彼女の通夜だった。
彼女は彼女の家で一番大きな部屋の奥にいた。家具はどかされて大勢の人が入れ替わり立ち替わりやってくる。さざめくように続く低い話し声や悲鳴に近い泣き声に満ちた家の中で、彼女のまわりは異様に静かだった。ひんやりとおだやかな、別の空気が漂っていた。

泣きはらした顔のご両親に挨拶する。何も聞けない。1週間だ。たった1週間の間に何があったのだろう。彼女の幼い妹だけが私を見ていつものようににこにこと笑っている。新しいおもちゃを見せてくれようとする。彼女は遠くにいる。温度も気配も何もない、不在という形で棺の中にいる。空白に耳をすます。新しい言葉を紡ぐことのない彼女の声は、もう既に遠くなり始めている。

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