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買わないと後悔する買っても多分する


本屋で立ち読みしていた本がなくなった。画集だったので立ち読みというよりは立ち見だろうか。本屋の人が見咎めて隠してしまったのかもしれない、まあ売れたのかもしれない、とにかくいつもあった場所にその画集は見かけなくなった。
お金がなくて買えなかったわけではない。安いわけではないがべらぼうに高価でもなく、本当に欲しかったら買ってしまえるくらいの本だった。私の思い切りが悪かっただけだ。本当に欲しいのかどうかわからない、不要不急の権化のような美術書をバイトの身で今買う必要があるのか、こうやって会社帰りにちょっと本屋に立ち寄ってしばらく眺めて帰るのがベストな関係なんじゃないか、と言い訳をしながらずるずる先送りにしていたのだ。そしてまんまと画集はなくなった。落胆できる立場ではないのに、とても残念な、悔しい気持ちになった。
それからもその本屋には立ち寄った。時間が経つにつれ画集のことは忘れていった。

ネットで本を買うなどできなかった頃の話だ。この間、美術書関係の本が多い古書店であの画集を見かけた。つい棚から取り出してしまった。表紙も、手にしたその重さも変わっていなかったが、価格は五倍になっていた。本当に手が出せなくなっていた。
この画集にはその前に一度会っている。友人の家にあった。あなたがいいと言っていたから買ってみた、と友人は画集を取り出して私に渡そうとした。私はとっさに本を受け取るのを辞退した。友人の屈託なさに踏みつけにされたような気がした。誰も悪くない。強いて言うなら私の優柔不断が悪い。なんの悪気もない友人の笑顔に自分を呪った。

彼女とはゆっくりと疎遠になった。たまたま同じ場所にいた時間があっただけのことだったのだろう。画集をぱらぱらとめくる。久しぶりにみた絵はよそよそしく他人行儀で、買う気は少しもおきなかった。なんのわだかまりもなく棚に戻して店を後にした。


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秋の日に干せば秋の匂いがする


祖母の着物を売ろうと思った。町から少しはずれたところに着物を買い取ってくれる店があるらしい。祖母が亡くなって祖母の持っていたものは整理した後私が引き取ったが、狭いコーポで置く場所に少し困っていた。私は和服は着ない。裁縫も苦手なのでリフォームもできない。折り畳んで押し入れにしまっておいたのを心を鬼にして処分することにした。
祖母はとてもお洒落な人で着物の柄行きもどれもとてもモダンだった。どの着物も着ていた祖母の記憶がある。久しぶりに広げた着物にはところどころにシミが滲み出て、祖母が着ていた頃の輝きはなかった。長く使われていなかったもの特有のごわごわした手触りを感じて、これはもうただのモノになった、と心を決めた。着物を風にあて、リサイクル店にシミのある着物の引き取りは可能か確認の電話をした。

シミの程度を確認させてください、お待ちしています、とお店の人は言った。ああとうとう一歩を踏み出してしまった、と電話を切った後部屋の中をぐるぐる歩いた。おばあちゃんごめんなさい、と仏壇に手を合わせてまだ気持ちは落ち着かなかった。

湿気だけはなんとか払った着物を抱えて車を運転している。目的地近くまで来て駐車場に車を停めたら海の匂いがした。舗装もしていない荒野のような駐車場のかたわらに洗濯物を干すような丸いポールが立ててあって、広げたイカが干してあった。何分かごとに回る。回るたびに止まっていたハエが飛び立ち、小春日和の駐車場に海の匂いをまき散らしていた。車を見つけたおじさんが駐車代を回収にきた。一回800円。丸一日停めるわけでもないのに高いと思ったが黙って払った。
着物は十枚で1000円だった。おばあちゃんが楽しんで買って着たのだからもうよかった。いいと思おうと思った。全部の着物を渡し、1000円札を一枚もらって店を出た。

駐車場に戻るとまだイカは回っていた。しばらく眺めていると、あのおじさんがやってきて買うかね、と訊いた。三枚で1000円だそうだ。高いのか安いのかわからなかった。曖昧な笑顔で車に乗ろうとするとおじさんは一枚300円でいいよ、とすがってきた。

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