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骨の耳が覚えている


菊人形の胴は藁だから基本残っていない。残っているのは手足と、首だけだ。見世物だからだ。民族資料として博物館にある。吹きさらしの小屋に飾られ濁声の口上にまみれ好奇の目にさらされ、物置のすみに忘れ去られたのが幸いして破棄を免れた首がずらりと並んでいる。生き生きとした表情は首だけということを忘れてしまう。体がない分ここから先の可能性まで考える。何十年も前の、首だけの人形がまったく死んでいない。
ここにある首はすべて同じ製作者が作ったものだった。彼は芸術を目指さなかったのだろうか。資料というにはあまりに有機的だ。芸術と呼ばれるにはこれらは何かが欠けているというのだろう。というか、芸術ってなんだ。これだけの腕を持っている人が、どうしてなくなってしまう菊人形ばかり作っていたのか。死んでも見世物扱いだ。美術館には入れてもらえない。
首の展示の後には手足があった。汚れて欠けて傷だらけで、保存状態の過酷さが手に取るようにわかる。菊で着飾ったモノクロの写真もあった。さっき見た首たちも花に飾られていた。むくむくした人形の写真を見ながら歩いた。どんどん薄暗くなる。薄暗くなった展示の最後に、ぽつんと観音像が立っていた。
小柄な人と同じくらいの大きさで、色も綺麗に残っていた。もちろん全身ある。まとっているのは菊ではなく布の着物だ。杖を持ち笠をかぶり、少し振り向き加減に白い指で行手を指している。足には草鞋を履いていた。美しい表情の観音像だった。

カミサマは捨てられない。見世物にも美術品にもなり得ない。ましてや資料などとは呼べない。ばちが当たる。これはひとつのメソッドだ。観音像は残され、彼の名もプライドも守られた。打ち捨てられる運命の見世物たちもまんまと残った。
普段は彼の故郷の寺に祀られているらしい。きれいな厨子に納められた観音像の写真を見た。寺の写真もあった。隣に立派な建物があって、こばとようちえんと書いた大きな看板が写っている。

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縦列駐車しか手はないのか


たとえば隣に鬼が住んでいても
生活が違えば会うこともない
壁一枚のこちら側で
わたしは朝ごはんを食べる

誰かに何かが起きないと
本気になってはもらえないから
おかあさんはよく言っていた
どうかおまえは最初のひとりにならないでね

地獄に落ちたと嘆く人の
地獄でわたしは生まれたらしい
今日は朝から天気がいいし
洗濯物を干し終わったらサイダーを飲むんだ

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