82,83/101(xissa)
何も起こらない映画だった
ここには上の町と下の町がある。下の町の行き止まりには、上の町につながる古い階段がある。あまりに急で、誰も上ろうとはしない。見上げても階段の先には空しかない。その先に町があるとは到底思えなかった。下の町は下の町で完結していた。
土曜日、学校が終わったあとふと階段のことを思い出した。家には誰もいなかったし昼ごはんはなかったし、ランドセルを置いてすぐ階段に向かった。
年季の入ったコンクリートの階段はぼろぼろで細く、不安定なはしごのようだった。空に向かって黙々と上る。立ち止まり後ろを振り返ると、パノラマのような景色が広がっていた。小さい車が走っている。遠くに光る川も見える。電信塔の立った山も見える。自分の家を見ようと足元に目をやって気づいた。ここはすごく不安定な場所で、手すりも何もなく私はひとりで立っている。むき出しの背中がすーっと冷えた。足元にだけ集中して、二度と後ろは見なかった。
上り詰めた先には森があった。小さな鳥居もある。奥には打ち捨てられたような神社があった。何かがひそんでいそうな古い神社の前を通り抜けた先はいきなり町だった。明るくて平坦で、住宅があり、集会所があり、バス停もあった。標識も立っている。公園もある。下の町と何も変わらない光景がひろがっていた。ジュースの自販機があった。ジュースだって下の町と同じだ。値段も同じ。
うろうろ歩いているうちに高いところに上ってきたことを忘れた。神社の森に隠されて、ここにいると下に町があるなんて思いもしない。上の町は上の町で完結していた。
この世は多分いくつかの層が重なってできている。同じように生活をしているが、別の空があって別の地面があって別の時間が流れている。私が今見ているのはいつものとは違う、多分別の空だ。
上の町には人がいなかった。車も通らないので道の真ん中を歩いた。あまり遠くまで行くと帰れなくなる、と思ったところで少しスピードが落ちた。あの急な階段を降りるのが怖かった。未練たらしくだらだらした坂の言うなりに歩いていると、ふと見たことのある看板が目の端をよぎった。消費者ローンの看板だ。小走りに近寄ると、唐突に見知った通りに出た。あれ? と口の中でつぶやいた。目の前の通りと今通ってきた通りを何度も見比べる。背後には上の町があり、目の前には下の町の見慣れた道があった。私は道の境目に突っ立って船酔いのようにゆらゆらした。二つの町がにじむように馴染んでゆくと、突然おなかが空いていることを思い出した。
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制服の無意識
秋本さん?と地下鉄の中で突然声をかけられて振り向いたら高校の時の同級生が立っていた。見た目も立ち姿もほとんど変化がなかったのですぐに思い出せた。だが名前が出てこない。
そばかすだらけの童顔もピンで留めたくせっ毛も変わってない。彼女の胸には十字架がかかっていた。私の視線を読んだ彼女は、シスター見習いなの、と鈴を振るような声で言った。声にも覚えがある。
特に仲が良かったわけではないが、彼女についての記憶は鮮明だ。修学旅行の時に何かに腹を立てた彼女が宿泊所のトイレに閉じこもった事件があった。クラスの数人で説得に向かったが彼女は出てこなかった。皆でトイレのドアの前で立ち尽くしていたら、突然ドアの向こうで用を足す音が聞こえた。私たちは顔を見合わせ、静かにその場を立ち去った。
その後どうやって彼女が投降したのかは記憶にない。そのまま私たちは何事もなく卒業した。卒業式の日にも彼女は謎の癇癪を起こしていた。
シスター見習いについては気にはなったが自然な質問も思いつかなかったし名前を忘れているのがバレたくなくて深入りしなかった。名前がわかっていたら呼びかけて経緯を尋ねただろうか、と考えてすぐ打ち消した。彼女が心の平安を見出したことは喜ぶべきことだ。あれからずいぶん時間が経っている。私たちはいい大人だ。そして多分もうこれきり会うこともない。あと数分ならなんとかなる。
一駅分あたりさわりのない話をして、私、次で降りるから、と告げると、彼女はあら、と少し残念そうな顔をした。そして車内放送に絡ませるように続けた。秋本さんは、まだ秋本さんなのかな。今日一番のいい笑顔だった。返事もそこそこに飛び降りた。動き出した車両は手を振る彼女を運んでゆき、風にあおられながら私は唐突に彼女のあだ名を思い出した。
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