60,61/101(xissa)
叶わないまたねがポケットの中に
ライブハウスは商店街の一番端だった。アーケードが途切れた場所で、雨の降る日は地下に続く階段が左半分濡れていた。風のある日は容赦なく吹き込んだ。
階段も壁も黒かった。ライブのある日は黒い壁に沿って粛々と降りていった。暗くてワルくてわくわくしていた。ほんの少しの罪悪感は爆音がその地下室に満ちる瞬間、木っ端みじんに吹き飛んだ。背伸びばっかりして足はいつもぱんぱんだった。派手な照明に頭が痺れてまともな判断ができなかった。そこから見える景色はいつもひどく眩しかった。
商店街が解体されるという。ほとんど店がなくなったからだ。ライブハウスはとうになくなってファストファッションの店になって、その後は知らない。今も地下にスペースはあるようで雨が降ると半分濡れる階段は残っている。あれ以来中に入ったことはないが、あのぺしゃんこのステージはすでにないのだろう。わけのわからない場所にあった手すりも、傷だらけのカウンターも、お客も演者も共用だったトイレも。
花屋も陶器屋も本屋も、ライブの後ラーメンを食べた店も知らないうちになくなっていた。ケータイショップとドラッグストアだらけの安っぽい通りになった挙句、とうとうこの中途半端なアーケードもはずされる。
いつも全身黒ずくめだったベーシストがいた。ステージの暗がりにひっそり馴染むような控えめな印象の彼は、演奏を始めるとおそろしく硬質な野太いリズムを弾き出した。唯一無二のタイミングで時間にくさびを打ち込んで、王様みたいに笑っていた。惜しげもなかった。浴びるように聴いた。いつまでもこのままだと疑いもしなかった。ひとり欠けふたり欠け、気付いた時には景色はすっかり変わっていた。あの時憧れていたものは全部彼らが持っていった。
LEDの光は真下しか照らさないからどんどん寂しくなる。風のない夜、澱のように沈む湿気に足を取られながら歩いた。ちょうどよく暗いので自分にぐずぐずを許す。
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甘えていますが知らない猫です
ずっと猫が鳴いている。もう三日くらいどこかで鳴いている。たまに鳴かなくなるが、しばらくするとまた聞こえる。夜はひっきりなしに鳴いている。ペット禁止のマンションだ。誰かが飼っているわけではないだろう。餌付けもご法度だ。声だけで姿を見たことはない。どういう状況なのかも、何を訴えているのかもわからない。
会社の帰りが遅くなった夜、通り抜けたエントランスのひさしの上から鳴き声がした。階段で2階まで上がり、ひさしを覗いたがいなかった。でも確かに声はここから聞こえた。じっとしていると、また聞こえた。ひさしが横から見える場所にそっとまわる。壁とひさしの入り組んだ接合部に猫がいた。
子猫ではなく、毛の長い、大人の猫だった。暗くてよくわからないが濃い色をしている。きれいな猫だ。飼い猫かもしれない。まあるい目を私に合わせたままかたまっている。降りられなくなってずっとここにいるのだろうか。いやその前にどこからそこに登ったのか。水や餌はどうしてるのだろう。何もなくて何日もあんなに鳴き続けられるものなのか。ここから見る限りでは顔に余裕があるし目もきらきらして元気そうだ。ここに鳴きにきているのか。ライブか。迷惑なやつだ。夢の中にまで猫が出てくるのだ、こいつのせいで。近づくと猫はすばやく身を隠した。ああ。あそこ。雨樋の覆いの後ろに隠れてる。あれは見つからない。手も届かない。
対策が浮かばないままその日は家に帰った。夜、また猫の夢を見た。
しばらく猫はいたようだが、ある日ふっつりと声がしなくなった。エントランスで会った人に、猫、いなくなりましたねえ、と聞くともなしに聞いてみると、管理会社の人が来たんですよ、と教えてくれた。
若い男の人が脚立を担いで来たんです。するするーっとサルみたいに屋根に降りたら、猫は壁伝いにぽんぽーんと飛び降りて逃げていったんですよ。
彼女は一部始終を見物したらしい。郵便受けを開けながら、猫、ひとりで飛び降りる勇気が出なかったんでしょうかねえ、と独り言のように言った。開いた郵便受けからピザ屋や建売マンションのチラシが落ちた。またゴミばっかり、と散らばったチラシを乱暴に拾い集める中に株主総会のご案内が混じっていたのが見えたが、大丈夫だっただろうか。
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