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腕時計セーターの奥深く


私のおかしなペンの握り方が直らなくて、母は私を書道教室に入れた。先生は母より少し年配くらいの女の人で、痩せて、厳しそうな人だった。
週に一度先生の家に通った。道具は学校で使うケースをそのまま持っていったが、先生は墨汁ではだめだと墨をすらせた。部屋に大きな長机があって、8人の生徒が2人ずつ向かい合って黙って墨をするのが教室の始まりだった。落ち着きのない私にはすごく変な空間に思えた。
先生は見た目通り厳しくて、書いたものに丸をもらったことはなかった。朱墨で間違った運筆をガンガン直された。字は上手にならなかったし、握り方も直らなかった。母は先生にこの子の筆の持ち方をどうにかしてほしいと直談判に出ていたが、先生は、そんなにおかしくはありませんよ、と取り合いもしなかった。
ほんの一学期間くらい通って私はその習字教室を辞めた。夏休みに入る前の教室の時に辞めますと言ってきた。黙って座って字を書くのが苦痛だったからだ。母は怒ったが当初の希望が叶いそうにもなかったからか、そのままするっと私は辞めてしまった。教室で使っていた座布団も取りに行かなかった。
白い紙に黒い墨で書くだけではなく、黒い紙に白い墨で書くこともあるのです、そのことを考えながら書きましょう、と先生はよく言っていた。当時は意味がわからなかったし、今もわからない。後で知るが、先生はそこそこ有名な書家だったらしい。私は今でもペンを握り込んでぎちぎちと書いている。


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鬱蒼から木漏れ日


朝早い海峡は四角く切った青いセロファンを何枚も何枚も深く重ねたような色をしていた。流れのせいだろうか、波のない、鏡のように凪いだ水面もあちこちに見える。
陽は昇っているが、今は岩の影にある。岩には小さな神社が張り付いていて、太陽はその後ろから昇ってくる。それまで海は深い色をしている。
参道は海の中にある。海から社に向かって道が伸び、階段が続いている。足元に寄せる波は透き通ったガラスの薄い緑だ。冷たい風も吹いている。流れに逆らわず船がゆく。波の下には古い都が眠っている。
思い出すことはたくさんあるが掴まえる前に散り散りに消えてしまう。目の前のうつろいに心を奪われている間に日々は過ぎてゆく。波は幾度も寄せ返す。海の青さが軽みを帯びてきた。伸びやかな空にまた風が吹く。幼い頃に暮らした町の朝は、こんなにも明るい。

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