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触れるとこなごなになる記憶


山あいの小さな村で小学2年生まで過ごした。祖父母の家に預けられていた。祖父母の家は楽しかった。朝、祖父はコーヒーに牛乳をたっぷり入れて飲んでいた。マグカップのふちぎりぎりまで牛乳を入れて、余った牛乳を瓶ごと私にくれた。私が飲むので祖父の牛乳は日に日に減っていった。ミルクの少ないカフェオレを黙って飲んで、祖父は新聞を読んでいた。もう仕事には行っていなかったから多分退職していたのだと思う。私が学校に行く時にも新聞を読んでいて、行ってきますと言うとちょっと顔をあげて、うん、と返事をしてくれた。

祖母は50代の中ほどだったと思う。子育てが終わってようやく自分の時間ができた時に私を預かってくれていた。面倒くさがりもせずにたっぷりと子供扱いしてもらった記憶がある。よく二人で外出した。小さな神社のお祭りが楽しかった。二人でおそろいのお守りを買ったり露店を冷やかしてまわったりした。モールで作った小さなひよこを買ってもらった。3羽入ったのと5羽入ったのがあって、3羽の方を見ていたら、遠慮しなさんな、と5羽のかごを買ってくれた。身がよじれるくらい嬉しかったのだがどう伝えればいいのかわからなくて、私はただもじもじするばかりだった。

外に出ると時々祖母は祖父の悪口を言った。おじいちゃんのラーメンの作り方が気に入らないとか汚れたタオルを洗わないとか返事をちゃんとしないとかそんなようなことだった。あんまり頭に来た時にはおじいちゃんの座っている椅子の近くでおならするんよ、と言って笑っていた。祖母は外ではいつも手をつないでいてくれて、その時もつないだ手をぶらぶらと振って笑いながら歩いた。

夏休み前に私は実家に戻った。学校も転校して2学期からは都会の小学校に通った。祖父母とは電話で話すことはあっても、なかなか会えなくなった。次に祖父に会ったのは病院で、管をつながれた祖父とはほとんど話ができなかった。一日中うとうとしているような状態で意識がつながることも少なくなっていた。おばあちゃんは?と尋ねると、まだ来てない、と風がすり抜けるような音を立てて答えてくれた。それが祖父と話した最後になった。

祖父が亡くなって2年も経たないうちに祖母がぼんやりし始めて病院に入った。私は大学生になっていた。お見舞いに行くとしばらく顔を眺めたあと、電信電報電話局の方ですかねえ、こんにちわあ、と他人行儀に挨拶してくれた。私のことは覚えてないようだった。チョコレートを一緒に食べた。祖母は一口食べて、おじさんくさい、と顔をしかめた。おかしくて笑った。祖母も笑った。

次に会いに行った時には祖母は全然喋らなかった。手をつないでみたが、反応はなかった。目も見えているのかどうかわからなかった。

祖父母がいなくなってから村のことは思い出さなかった。就職してからは幼い頃などなかったような日々が続いた。祖父の十七回忌の時、村がダムに沈んだ話を聞いた。住んでいる人たちが高齢になりいなくなり、あっという間に工事は進んだらしい。法要の後、私は車を走らせた。景色の変わってしまった道路をひたすら走り、村の気配を探した。どこまで行っても土の匂いはしなかった。町の続きのままぐんぐん坂を登っていった。村があった場所に水が溜まっていた。山の上の道からダム底を覗く。

村は水葬になった。畑も家も神社も商店も幼い私も、すっかり水に閉ざされてもうさわれない。古びることもない。元の形のままずっとある。夢のように水底で揺れている。


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覚えがないが微笑んでいる


昔のが出てきたから、と小学生時代の日記や読書ノートを貰っても、そこからここまでの道程がまっすぐ見晴らせるわけでもなく、懐かしく思い出す記憶もない。学習ノート50円。ぱらぱらとめくっては、これを書いた子供の筆圧の強さと紙面を汚すほどの手汗を確認するばかりだ。思い出、と書かれた文集を見る。覚えがない。

思い出はそれを取っておこうと思った人のものだ、多分。ノートに記憶は全くないが、それを取っておいてくれた人のことは思い出せる。その手の残像をなつかしく眺める。ノートは捨てる。

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