交響曲第17番『うろおぼえ』(インターネットウミウシ)

拍手が止んだ。
指揮者がこちらを向き、穏やかな顔つきから真剣な目つきに変わる。
ひと呼吸おくと、指揮者がタクトを振る。
それに合わせて、楽団員が一斉に音を鳴らす。私以外は。

私はいつもこの冒頭部分を聞くと、足先だけ小さく踊ってしまう。
イスに座ったまま、みんなの演奏を聞く。何度聞いても「上手いなぁ」と思う。
実は私が、このホールの中で一番贅沢な観客なのかもしれない。

交響曲第17番『うろおぼえ』。
第1楽章『あれの名前が出ない』はクラシックとは思えないくらいアップテンポだ。
1720年に作曲家のヘッペルギッテルが、老いと共に固有名詞の名前が出てこなくなった時に感じた焦りを交響曲にしたものだ。

第2楽章『もうここまで出てる』からは落ち着いた曲調に変わる。
具体的な名前は出てこないが、うっすらと何文字かは思い出せている。
いや、むしろ文字数までわかればほとんど思い出せているのと同じだ、という余裕を表現している。

第3楽章『頭文字だけ教えてくれる?』では少しずつ焦りが見え始める。
イメージに近い言葉を口に出してみてもしっくりこない。
しかもメイドたちがクスクス笑っている姿も見てしまった。
もしかして私は見当違いなことをしているのか。
そしてついに近くにいたメイドに頭文字を聞くのだ。
ここで私はようやく楽器の準備を始める。

私の出番は1ヶ所しかない。
第4楽章『やっぱそれだと思ってた』のクライマックスだ。
私の楽器は「ポヌリネッタ」と呼ばれている。一般的には「ポフェス」の方が通じやすいかもしれない。
ポヌリネッタはバスとアルトがある。私はバスポヌリネッタ奏者だ。
一応弦楽器に分類されるらしい。

穴だらけのミッドナイトグリーンのボディ。いまだに押したことない箇所もある。
ボディの端からは口でくわえる用のホースが伸びている。別に吹いても音は出ない。
12面体のボディの上をシャンパンゴールドの皮が覆い、5本のバネが下に伸びている。
ボディの中は師匠から「あまり見ないように」と言われているので、リペアやメンテナンスの時にはそのまま職人さんに渡してしまう。

私はピアニストを目指して音大に入った。
しかし入学してすぐ、同級生のレベルの高さを目の当たりにして心が折れてしまった。
あんなに頑張ったのに。遊ぶ時間も恋する時間も全て犠牲にして鍵盤に向かってきたのに。
転科しようにも他の楽器で今更プロになんてなれる訳がない。

書き上げた退学届を鞄に入れ、学科の倉庫で自分の荷物を整理していた時、「廃棄」の紙が貼られたポヌリネッタを見つけた。
正直、最初に見た時は粗大ゴミかと思った。
でも通りがかった教授に楽器だと教わった時、なぜか自分を重ねた。
音は出るのに、用はない。
気付いたら私はポヌリネッタを持っていた。

教授のツテを頼って、ポヌリネッタ奏者だった師匠と会うことができた。
師匠は82になるおじいさんだった。ばかうけを食べながらポヌリネッタについて教えてくれた。
「ポヌリネッタは絶滅危惧種だよ」、それが一言目だった。
使われる曲の少なさ、鳴ってるんだか鳴ってないんだかわからない音、やたらと面倒なメンテナンス。
そういったことの積み重ねでポヌリネッタ奏者は年々減っているという。
ピアノを諦めた私にはこれしかないと思った。

師匠に頼み込んで、音の鳴らし方を教わった。
言われるがままバネを弾いた時、それまで安楽椅子に腰掛けていた師匠が立ち上がった。
師匠の目つきは、気の良いおじいちゃんから演奏家に変わっていた。
握っていたばかうけは、ボロボロになっていた。
それから師匠のアトリエで1日10時間練習をした。

ポヌリネッタのコンクールで金賞を貰ったのは24歳の時だ。
人生で花束をもらったのは、生まれて初めてだった。
『月刊ポヌリネッタ』の表紙には「24歳の新星あらわる!」と書かれていた。
だけど、正直私にはちゃんと音が出てるかはわからなかった。
でもすごく褒められた。中には泣いている人もいた。
その2年後、今の交響楽団に声をかけられた。

私は妥協してプロになった。
ピアノを諦めて、いまだに音が出てるのかピンとこない楽器の奏者として舞台に立っている。
コンサート中の今も、本当にこのままでいいのか考えてしまう。
でも私の音に拍手をくださる人がいる。お金を払ってくれる人がいる。
その人たちのためにも私は舞台に立たなければならない。

あっ、そろそろ私の番が来る。
ホースを口にくわえ、バネに手をかける。
交響曲第17番『うろおぼえ』第4楽章『やっぱそれだと思ってた』。
負けず嫌いのヘッペルギッテルは、メイドに答えを言われた悔しさをごまかす。
しかし最近の研究によるとヘッペルギッテルは、メイドに言われた答えにピンときていなかったという。
「やっぱそれだと思ってた」と言いつつもヘッペルギッテルはどこかで「本当にそれでいいの?」と思っていたのだ。
その話を知ってから、この曲をより一層好きになった。
きっと、今日の私もピンとこないから。
指揮者が私の方を見る。
私は力強くバネを引っ張った。

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