76,77/101(xissa)
はからずも保護色
派遣先のパソコンの癖が強い。アスキーアートというのか顔文字というのか、長めのそれがたくさん辞書登録されているようだ。一文字打つタイミングで恐ろしい幅の入力候補のタグが飛び出してくる。ちらっと見えるのが気になってついつい戻って確かめてしまう。絵文字だけではない。先ほど、く、を打った瞬間に「黒髪が美しいですね。」が出てき手が止まった。黒髪が美しいですね。ローン会社のパソコンに最も似合わない文言だ。口説き文句としてもレベルが高すぎる。これが会社のパソコンに登録される状況がわからない。黒髪が美しい人が取引先に多かったとか。黒髪が美しいと一時間ごとに賞賛するよう誰かに脅迫されていたとか。そしてふと我に返る。
派遣先の備品に支障をきたしたら派遣会社に連絡をしなければならない。壊したわけではないが、勝手にいじるのもきっと怒られる。私がこれを登録したと思われたら何かまずいんじゃないだろうか。黒髪が美しいですねで後々の仕事に影響が出るなんて絶対嫌だ。申込書の住所を打ち込むだけの簡単なお仕事のくせに。そうだパソコンを替えてもらおう。
取りまとめの主任さんにつっかえつっかえ状況を話し始めると、周りの人たちがざわついた。すみませんね、変えてあげたいんですが、今、空いているのがそれしかないんですよ、ちょっと我慢して使っておいてもらえませんかね。それから、ほんとに申し訳ないんですが、それ、そのままにしておいてくださいね、今その人産休で、帰ってくるんですよ、中身変わってるとまた面倒なんで。
最後の方は独り言のように主任さんはしゃべった。ごめんなさいねと困ったような笑顔で社員の方がお菓子を渡してくれた。
私は派遣という出島にいる。あれこれ気になるがここまでだ。微妙な高さの椅子に腰掛け、入力を再開する。江戸川区、と打つ瞬間何かがちらっと視界をよぎるが大丈夫、目にも止まらぬ速さで打ち抜けばいいだけだ。
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駐車場に車が全部いる深夜
一日家から一歩も出ず、日が変わって郵便受けを見に行く。3階から階段を使って降りていく。コンクリートの階段はぼんやりとむき出しの蛍光灯に照らされていて、手すりの向こうに街灯はなく、暗い。
エントランスはいつ来ても喉の奥にからまるような独特な匂いがする。要らないチラシを入れるゴミ箱が山盛りになって横っ腹が裂け、何日か前に入っていたパチンコ屋の派手なチラシと一緒に何かが入ったゴミ袋がはみ出していた。入りきらないチラシが散乱している。郵便受けはゴミ箱のすぐ横だ。投函口を覗き込む。
たった数階降りて来る間に表情はすっかり抜け落ちる。作るべき相手がいないからだ。私は今どこにもいない。何の役にも立ってないし、私も誰も必要としていない。誰の目にも映っていない。誰も映していない。透き通ってしまって自分のいる空間を自分ごと、古びた昔の写真でも見るようにうっとり眺めている。色褪せたエントランスは遠ざかり小さくなり、くらっときて我に返る。
床に落ちているのと同じチラシが見えたが郵便受けは開けなかった。エントランスを出ると、風もなく、星もなく、建物のひさしでへんな形に欠けた黒い空があった。階段を登る。今は302号室の借主の顔だ。
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