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耳ヲ貸スベキ!――日本語ラップ批評の論点――

第四回 ヒップホップ・フェミニズム/通俗性/革命的モワレ  韻踏み夫

 「一人称」の「空虚」さゆえに、「自分が自分であることを誇る」という形式は、「自分が日本人・男性・異性愛者であることを誇る」というような反動的な意味作用を持つことになった。しかしその形式は善用もされうるものである。COMA-CHI「B-GIRLイズム」はその説明にこの上なく適切であろう。言うまでもなく、「B-BOYイズム」をもとに作られたもので、これが示しているのは、「一人称」という形式の「BOY」を「GIRL」に入れかえるだけで、すぐさまれっきとした「ヒップホップ・フェミニズム」の一曲が完成するということなのだ。
 そのようにして「自分が自分であることを誇る」は様々に差異化されてゆくべきであるし、実際にそのようなことはなされてきた。流行りの「インターセクショナリティ」なる概念を導入してもよい(注1)。ごく簡略にアメリカでの実践を確認しておけば、黒人内でのマイノリティによるヒップホップの実践として――日本にはほとんど紹介されていないが、たとえば「ホモ・ホップ」や「クリップ・ホップ」のような動きがある。前者は同性愛者によるヒップホップであり、九〇年代から二〇〇〇年代にかけてカリフォルニアを中心に隆盛した。Deep Dickollective、Katastrophe、God-des and Sheのようなアーティストが代表的で、その動きを追ったドキュメンタリー『Pick Up the Mic』も発表されており、現在のクィア・ラップにつながるものである(注2)。「クリップ・ホップKrip Hop」は、知的には「クリップ・セオリーCrip Theory」(注3)の探求があるように、(黒人)障害者によるヒップホップであり、詩人でも活動家でもあるリロイ・F・ムーア・ジュニアが「クリップ・ホップ・ネーション」を設立し、Wheelchair Sports Campのようなアーティストが代表となろう。日本語・ラップ・クィア・批評、日本語・ラップ・クリップ・批評が必要である。
 こうした前提を踏まえた上で、日本語・ラップ・フェミニズム・批評を検討することが今回の目的となる。最近翻訳されたクローヴァー・ホープ『シスタ・ラップ・バイブル』(注4)が示すように、男性中心的だと批判されるヒップホップの歴史にはしかし、はじめからすでに多くの女性が関わり続けてきた。そのようななかで、ヒップホップにふさわしいフェミニズム理論を練り上げることが急務であるが、そのとき第一に参照すべきは、すでに古典となっているといってよい、ジョーン・モーガンの「ヒップホップ・フェミニズム」(注5)であろう。「ポスト公民権」「ポストソウル」「ポストフェミニズム」のフェミニズムとして、「グレイ」なもののなかに女性の「リアル」を求めようとする、いわば第三波的な感覚から、この「ヒップホップ・フェミニズム」は導かれている。

私たちの前のいかなる世代にも増して、私たちには「リアルであるkeeping it real」ということに専心するフェミニズムが必要である。私たちには、私たちの音楽(ヒップホップ――引用者)のような声が必要なのだ――いくつもの声をサンプリングして層をなし、その感性を古いものに注ぎ込むことでそれをなにか新しいものにひっくり返すような、挑発的で力強い声が。(引用者訳)

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