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十年後への不協和音 2021年太宰治賞最終候補作『三月の子供たち』評

【書評】川村のどか

 危険を承知であえて書かなければならない。
 私が東日本大震災を考えたときに真っ先に思い出すのは、テレビによってくり返し放映された宮古市の港町へ押し寄せる津波の映像である。被害の壮絶さを象徴的に物語っていたその映像では、溢れ出した海水が漁船と思われる船を運び、住宅街という本来ならあり得ない場所を突き切るようにして押し流していく光景があった。人の姿こそ映っていなかったものの、濁流の下には確かに悲鳴や苦痛がこだましていた。テレビから流れるスペクタクルに唖然とした記憶は未だ鮮明だ。一方、視聴者としてテレビの中のあの映像を眺めたとき、私の中には間違いなく何か不謹慎なものが湧いていた。スペクタクルを楽しむ享楽的感情である。安全な場所から未曾有の災害を見て高揚する心理が確かにあったのだ。
 作中、たまたま東京にいたために被災を免れたカワノベは「恐怖の底」に「自分がそこにいなかったことに対する仄暗い安堵感」があることを自覚して深く恥じるのだが、東北に生活拠点を持たず親族や友人が住んでいるわけでもない視聴者の中には恥じることすら忘れてスペクタクルを享楽した者もいたはずなのだ。現に私がそうだった。そしてその感情は津波の下に人の人生があるという想像力を欠如した結果もたらされたのではなく、むしろそのことを強く意識したからこそ生起する禍々しいものなのである。
 当事者と非当事者の間に越えられない壁を生じさせたのがあの震災だったのだと思う。それは私のような視聴者と被災した人々との間に生じたものから、カワノベのように東北に生活拠点を持ちながらたまたま被災を免れた者と現地にいた者との間に生じたもの、生者と死者との間に生じたものまで様々だが、それが当事者である「あなた」と非当事者である「わたし」との間に深い亀裂を走らせたのは確かだ。しかも「わたし」と「あなた」の関係においては、「あなた」の苦しみを想像しておきながら「わたし」がその苦しみをスペクタクルとして享楽する禍々しい亀裂が走っている。この亀裂を通してなお「わたし」が「あなた」の苦しみを見つめ直すためにはあの瞬間に「あなた」が経験したことを、あの瞬間に至るまでに「あなた」が生きた時間を、改めて想像し、体験するしかない。それを実現するものとして作者は芸術を捉えている。カワノベが没頭することになる音楽から、彼の恋人となるケイが勤しむ写真、そして文学。それらは「あなた」の苦しみを真に理解するためにこそある、と。
 一方、視力を失いつつある祖母の目になるために写真を撮り始めたケイが光景を撮影する佇まいは「今、この瞬間の光をフィルムに永遠に焼き付けなければならない。この瞬間は、もう二度と訪れないのだから」という切実さに貫かれており、これは作者がこの作品でなそうとしたことでもあるのだと理解できるのだが、しかし作中には明らかに「事後」の視点で「事前」を語ってしまっている記述が散見され、図らずも「事前」の「瞬間」を焼き付けることの不可能性を露呈してしまっている。それは「事前」の時間においてケイと知り合ったカワノベが喫茶店で音楽について語る場面などにも現れており、デヴィット・ボウイに言及しながら「ボウイが曲を歌っているのではなく、曲がボウイを支えているように見えたんだ。(中略)作者本人さえも超えてしまう、芸術が持つ力の素晴らしさを感じた」と芸術に対する感動が吐露されるのだが、「事後」の視点でこのセリフに接するとあまりにナイーブな芸術観に白けてしまうのである。実際、震災の直後にカワノベは音楽の無力さを痛感してギターに触れなくなる。震災がもたらした亀裂はこのようにして「事前」を想起することにも影響し、「事後」を生きる「わたし」を「事前」とは全く別のものにしてしまうのである。
 選考委員が口を揃えるように、この作品の最大の見せ場であり作者の特技ともとれるのが音楽の描写、特にカワノベたちが結成したバンドの演奏シーンなのだが、読み進めていくと彼らの音楽を素直に感動できなくさせる不協和音が書き込まれていることに気づく。それは東北の大学へやってきたカワノベが、バンド仲間の発案で女川原子力発電所を訪れるシーンである。この場面では女川原子力発電所を含んだ風景の壮大さや美しさが描かれるが、バンド・メンバーの一人であり兄が原子力発電所で働いていたリュウによって、微量ながら原発が常に放射線を発しているという知識を与えられると、主人公のカワノベは「核という別のレイヤーが風景に重なって見える」ようになり、雄大な自然を素直に眺めることができなくなる。このレイヤーは鉄の弦を電気信号にして増幅する電子楽器の演奏をこそ覆い、音楽を可能にしているのが原発による電力であることを意識させられ、強い熱量で描かれた演奏シーンを単純に感動できないものにしてしまうのである。一例を挙げれば、ライブハウスでの演奏で他のバンド・メンバーの技量に追いつけなくなってしまったカワノベが、そのリベンジを挑むことになる大学祭でのライブ・シーン。そこで「鉄の弦の振動が電気信号に変換され、音に変わり、大気を揺らしていく。予感が燐光のように輝き、秋の日の光と混ざり合う」瞬間が描かれるのだが、自然と調和するように見える美しい音楽を登場人物の一人が口にした「俺たちの音も元を辿ればウランで沸かした蒸気だよ」というセリフの記憶が覆い隠してしまう。このような異和が作品全体を軋ませて作者の意図せざるものを招くに至っている。
 後にバンドを結成することになる三人が初めてセッションを行う場面でも、作者がつい書き込んでしまった「僕はギターでビートを繋ぎ止める。大波にさらわれそうな船を繋ぎ止めるように」という記述によって音楽は常に原発の事故をもたらしたあの津波を想起させるものとして機能し、ライブ・シーンでどれだけ音楽による感動を伝えようとしても、群衆の歓声が津波の発する唸り声のように響いて不穏さを帯びてしまうのである。言ってみればテキストそれ自体に津波が襲いかかり、場面ごとの作者の意図を濁流が押し流しているのだ。こうして描こうとした主題が作者の技術を食い破っていき、作品が人の手を越えて自律したものへと変じている。作者はそうなるように願って筆を運んでいる節があるが、成そうとしていることに技量が追いついていない感じは否めない。その一方で、では十分な技量があればこの主題を描き切ることができたのかと問うてみれば、決してそうではないことがわかる。どのように語ったとしても言葉足らずで拙いものになるどころか、それをフィクションにしたことについて倫理的に詰られる危険を引き受けなければならないような主題が東日本大震災なのだ。震災を描くとはそういうことなのではないか。
 選考委員の一人は本作を「情意に関する感覚に希薄なところがある」と評しているが、人間同士の情緒にこだわったのでは「わたし」と「あなた」の間に走る亀裂を乗り越えられない点がこの選考委員には見えていない。作中の随所には自然が書き込まれ、「人とは異なる理の到来を告げ」るために機能している——一例を挙げれば、地震を察知したオオハクチョウの群れが避難するために飛翔する印象的な光景は東日本大震災という圧倒的なカタストロフィに属している——が、ケイが写真によってひたむきに切り取ろうとした「光」も同じ「人とは異なる理」の中にあるものである。ケイの写真は物語の終盤においてカワノベに大きな力を与え、彼の人生に転機をもたらす。津波だけが自然ではないのだ。作中、野外でギターの練習をするために訪れた河原でカワノベが「水牢跡」を見つける場面がある。「水牢」とは真冬の河原に池を掘り木の柱を立て、そこにキリシタンを磔にして凍死させた場所である。この「水牢跡」には十字架と共にマリア観音が設置されており、初めてそれを目にしたカワノベは「時間が揺らぎ、古い時と現在、二つの時間が同時に存在するような気がした」と述懐する。処刑され命を落とした人を追悼する思いが「事後」と「事前」の亀裂をわずかながらかき乱したのである。それはマリア観音を含んだ河原の風景がもたらしたものであり、情緒だけが描かれたのでは到達できない瞬間なのだ。しかもカワノベとケイが出会うのはこの直後なのである。
 人間と人間との間に関係があるように、人間と自然との間にも関係がある。登場人物だけでこの小説を判断したら評価を見誤ることになる。本作は人間同士で演じられる和音ではなく、人間と自然との間に生じる不協和音をこそ捉えようとした一作なのだ。けだしその不協和音は和音以上の力をもって私たちの胸に響いてくるのである。確かに、「大宰治賞2021」の最終選考落選作である『三月の子供たち』は巧い小説ではない。手垢のついた比喩や既視感のある人物設定、都合のいい展開など、瑕を挙げれば暇がないほどだが、そういう稚拙さを嘲笑っていると不意に現れる一文に鳩尾を突かれることになる瞬間がある。技術的に優れた作品なら他にいくらでもあるだろうし、実際に今回の太宰治賞はそのような作品が受賞したわけだが、単に巧いだけの小説を突き刺すような切実さを『三月の子供たち』は秘めている。
 たとえば、結末においてこの作品の作者が震災から十年の時を経て過去を見つめる決意をしたカワノベであることが明かされる点は見逃すべきではない。純粋な「事前」の風景を取り戻すことはもはやできないことを嫌というほど自覚した上で、否応なく立たされてしまっている「事後」の世界においていかにして記憶と向き合うかという問題意識がこの作者の頭には常に控えているのだ。たとえ全く同じ言葉でも誰が言ったかでそれは全く違う意味になる。この物語は偶然から被災を免れたことを恥じて苦しんでいるカワノベという個人が語っているからこそ意味があるのだ。文学は誰にとっても妥当するような真理を描いてきたわけではない。そもそも震災という現実においてそのような真理は成立し得ない。そうではなく、歪んでいるかもしれない個人の声を拾い上げて形にし、その語りを記録するからこそ意味が生じるのだ。語りにおいて「事前」と「事後」を重ね合わせたときに生じるズレの中に、個人から出発したからこそ到達できる普遍が宿るからである。この作品の作者がカワノベとして設定されていることの意味は重く取るべきなのだ。

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