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文学史を鍛える

文芸批評時評・6月 中沢忠之

 最初に、直近で注目すべきトピックを紹介しておきたい。『ジャック・デリダ「差延」を読む』(23年4月)が刊行された。森脇透青による「差延」解説と討論の二部構成からなる。コンパクトな新書形式で読みやすい本書は、デリダの入門書であると冒頭に宣言される。入門書として書く/読むということは、デリダがテクストを読む/書く姿勢――「デリダのテクストにはむしろ、読者と「ともに」テクストを読み進めていくというような、講読の授業に近い雰囲気がある」――にも重ねられているだろう。森脇はデリダのテクストの難解な「暗号的性質」ではなく、その「リズム」に惹かれるという(https://twitter.com/satodex/status/1643628516095799298)。場面に応じて敬体と常体を切り替え、事項や登場人物ごとに様々な注釈や疑問形を重ねて解説していくスタイルからもその「リズム」に対するこだわりを読み取ることができる。抽象化しがちな議論に何かしら「リズム」を刻もうとしているデリダを想像すると、哲学に不案内ながらも、ちょっと可笑しいし面白い。そう感じもした。
 同じ月に、何やらヤバそうな連載企画「批評の座標――批評の地勢図を引き直す」https://note.com/jimbunshoin/n/n90301295091a)がスタートした。新しい書き手の場所を設けるということで、編集補助班に赤井浩太・袴田渥美・松田樹の名前があがっている。「本企画では、かつての批評家たちが織りなしてきた地勢図を若手の書き手たちが解きほぐしていく」という編集方針は、『差延』本の「入門」や「リズム」と近いものを感じる。すでに現時点で、赤井による小林秀雄、小峰ひずみによる吉本隆明、西村紗知による浅田彰、松田による柄谷行人、韻踏み夫による絓秀実の回が掲載されているが、ここでは松田/柄谷回に言及しておきたい。興味深いのは、柄谷的なコンセプト「交通」や「他者」ではなく、「継承」という観点から記述されているところである。そこではとくに福田和也との関係が詳述されるが、その「継承」はありがちな家族的なそれではなく、最近の言葉でいえば演劇的な継承――嘲笑・反発・圧倒・扇動…――とでもいいたくなるような関係において記述されている。これまで柄谷から福田への「禅譲」は文壇的な文脈から否定的に言及されるのみだったが、そこには確かに参照すべき歴史があるという思いがした。
 なんにせよ、批評の企画が立ちにくい状況にあって、ユニークな企画をサポートしている、読書人と人文書院にはリスペクトしかない。

 先日小谷瑛輔が主宰する「将棋と文学研究会」で文学史についてスピーチする機会をもった(5月20日、http://www.isc.meiji.ac.jp/~kotani/shogi/)。あの悪名高い文学史について、である。同研究会の研究誌『将棋と文学スタディーズ2』(23年3月)に、会員の木村政樹が巻頭言を発表している。その巻頭言「「将棋と文学研究」について――文学史とは別の仕方で」は、「将棋と文学」という、文学か将棋か、同研究会のどっちつかずの立場――じっさい研究会の参加者は文学研究者のみならず将棋の研究者(読む将)やプロ棋士まで幅広い――においてありうべき研究の所在を模索するものである。そこで私たち『文学+』の〈文学史主義〉が批判的に取り上げられたのだった。研究会に呼んでくださったのはそういう経緯がある。研究会を終えてから話を聞く機会があったが、文学研究者と将棋研究者の絶妙なバランスで成り立っていることを知り、自己のアイデンティティーを問い続ける数奇な――文字通りクリティカルといってよい――研究会の存在は面白く、将棋といえば穴熊しか知らない私もいまや会員である。
 『国語と国文学』(東京大学国語国文)7月特集号「近代文学における「作家論」の可能性」という、これまた悪名高い作家論についての特集を組んでいる。その寄稿者・篠崎美生子「「作家」語りをめぐるリハビリテーション」は、作家論を牽制するものだが、その流れで『文学+』の〈文学史主義〉を強く批判するものである。批評ではこのような批判をふくむ議論がめっきりなくなってしまったが、研究では狭いながら批判や議論が通常運転で行われているのを見ると健全だと感じる。批判はネガティブ・キャンペーンなどではなく、けっきょく研究という場所のためという同意形成があるからであろう。『日本文学』1月号では「読者を面白がらせる力」木村洋が文学史肯定発言をしたが(詳細は前回の時評を参照)、当該特集では作家論について議論していて変節したのかというとそういうわけではない。木村の「文学者という英雄――明治末、大正期の作家論」は、私たちがイメージするような作家論が発生した経緯を掘り起こす歴史記述である。研究誌にもかかわらず、外に開かれた平易な語り口なので、文学研究(しかも明治文学)を食わず嫌いとする私たち読者はこれを入り口にして、著者の『変革する文体――もう一つの明治文学史』(22年12月)を読むとよいのではないか。こと最近は、永井聖剛『自然と人生のあいだ――自然主義文学の生態学』(22年2月)、大橋崇行『落語と小説の近代――文学で「人情」を描く』(23年2月)と明治文学研究には最重要文献が立て続けに刊行されている。これらの著作に共通するのは、研究なのに(?)面白いという点である。ぜひ読んで国文学研究を身近に感じてほしい。ところで、最近の『国語と国文学』は国文学研究の最後のハブであろうとしている気概を感じなくもないが、どうだろう。期待してます。
 話を文学史に戻すと、定義をせずに文学史を連呼するのはもちろんよくないし、篠崎が示すように混乱を招いているとしたらそういう煮え切らない部分があるからかもしれない。とはいえ他方で、ある程度乱暴な問題提起があってもよいとは思っている。文学史といえば、大文字の作家と作品が通史的な記述にしたがって配置されるものがイメージしやすいだろう。そういった文学史はその権威性において批判されてきた。H・R・ヤウスの『挑発としての文学史』(1970年)にはそのカウンター的立場が明確である。一方で、そもそも通史的な文学史が困難になってきたという側面もある。世代でまとめられなくなった内向の世代登場がその分岐点であろう。以降、文学史はテーマ史やスタイル史――テーマ史のモデルは『戦後史の空間』の磯田光一、スタイル史のモデルは歴史を叙述スタイルの変遷としてとらえたヘイドン・ホワイトをあげておく――に姿を変えて記述されることになる(詳細は「運動としての文学史」https://sz9.hatenadiary.org/entry/2020/12/12/173749)。
 かくして文学史は相対化された。ものの見事に。ただし、いまは十年程度の短いスパンで優劣のゲームがくり広げられているように見える。当事者性流行りの文脈に寄せていえば、いかに深刻な生を生きているかの自己申告ゲームである。当然そこに歴史への配慮はない。それが文学史の権威を相対化した結果というならそれでよい。しかし他方で、文学史はテーマやスタイルによって分散化されたとも言い切れないところがある。このところ、大江健三郎が死に、村上春樹が新作を発表し、島田雅彦が放言をしたことで、SNSをふくめにわかに文学まわりへの言及が増えたが、目に付いたのは、無自覚ないかにもぬるい歴史観の共有であった。彼らはいずれも長いキャリアをもつ作家だから、言及にはおのずと歴史観がまといつく。たとえば大江はある歴史的な出来事と結び付けながら語られる。そこには文学にとって豊かな経験があったと。しかし春樹にはそういう語られ方がない。あげくの果てに、戦後の記憶を喪失した作家だとか、老いが見られないとして叱咤されさえするのはどういうことか【注】。戦後史というフレームをはめ込めばそういった歴史観になるのは必然的であろう。毒にも薬にもならない文学史。そんなぬるい歴史観がなんとなく共有されているのが現状ではないか。とはいえ、ではそもそも現在有効な通史が記述できるのかというと、そうもいかない。だからこそのテーマ史やスタイル史への分散化だったわけである。つまりぬるい歴史観の共有は誰にとっても他人事ではありえないのだ。

 島田雅彦という作家を文学史に位置付けることは村上春樹以上に難しい。それは彼が戦後史を意識した最後の世代の作家であることに半ば以上起因している。ところで、島田雅彦は「暗殺が成功してよかった」発言(「エアレボリューション」4月14日)をして方々から批判を受けた。いわゆる炎上というやつである。二十年後はまた違った審判がくだされるだろう。歴史とはそういうものであり、作家はそういった歴史と取っ組みあっているものではないか。さて今回の放言は、これまで憂国と世直しをフィクションでも展開していた作家として必然的なものではある。じっさい、安倍元首相が殺されたさいには、近刊『パンとサーカス』(22年3月)はテロを予言する作品だったと作家本人が半ば自慢気に述べていたはずだ。少し前の『スノードロップ』(20年4月)は、「無限カノン」三部作の続篇として発表されたものである。かつてカヲルと恋をした不二子が皇后となり夫の天皇を奮起させて――悪くいえば指嗾して――現政権へのテロならぬストライキ(「令和の改新」)を起こす。これらを読めば島田は天皇萌え(斎藤環)などではなく、聖母推しであることは明らかなのだが、その話はいまはおく。「パラレルワールドの皇后であり、雅子皇后とは一切の関わりはない」というエクスキューズがあるものの、「昭和様」と「平成様」を前任者とする天皇と皇后に(まるで島田がのり移ったかのように)言いたいことを言わせている作品の装丁には「禁断の「皇室小説」!」という挑発すら見られる。ある意味テロ肯定の放言より問題にされてしかるべき作品なのだが、完全にスルーされている現状を見ると、無限カノンの二作目『美しい魂』(03年9月)が皇室問題に触れて出版を延期した二十年前――『君が異端だった頃』(19年8月)に続く自伝小説『時々、慈父になる。』(23年5月)を読むと、かつて金井美恵子が強く批判した慎重すぎる出版延期は実はスピリチュアリスト江原啓之のお告げによるものだったらしい…――に比して現在の文学における政治の所在を考えざるをえない。島田は、磯田光一が「政治と文学」のテーマを通史的にとらえたときにその最後に置いた作家であった(『左翼がサヨクになるとき――ある時代の精神史』1986年11月)。その島田がフィクションにした「令和の改新」の前には福田和也の「平成クーデター」(『日本クーデター計画』1999年4月)がある。そもそも福田パンク右翼和也の「平成クーデター」は、島田サヨク青二才雅彦の無限カノン三部作に同伴するものだったのである。もちろんこれらの参照先には三島由紀夫(『文化防衛論』1968年9月)があり、そして二・二六事件がある。当然彼らはその何度目かのパロディであることに自覚的であるが、その有効性を考えると、戦後史というフレームを安直に採用し続けることはさすがに無理が生じているのではないか。
 戦後史を射程に置き、大文字の政治を文学が語ることに意味を見出すこと。島田とともに阿部和重がこの系譜――のおそらく末席――に配置される。島田が戦後史を背景にした無限カノン三部作+『スノードロップ』を書き続けた二十年間を、阿部もまた戦後史を背景にした神町三部作(『シンセミア』『ピストルズ』『オーガ(ニ)ズム』)のライフワークに費やした。島田には『パンとサーカス』をふくめるとして、彼らの三部作周辺に共通する点は複数あるが――『パンとサーカス』と『オーガ(ニ)ズム』(19年9月)はCIAが絡んで進む物語を通して日米の腐れ縁が問われる――、とりわけ主要なものは王殺しである。しかし二十年間をかけて問われた王殺しは迷走しているとしか思えない。皇室批判もこめられていた――皇室に対する作家の複雑な感情が読み取れた――無限カノン三部作ではあったが、『スノードロップ』では、単純な善人として設定されたチーム皇室が万民のために悪政を懲らしめるという勧懲の話に縮減されている。地元に風評被害をもたらしかねない土建屋的人間関係や小児性愛など猥雑な設定を盛り込んでいた『シンセミア』(03年10月)だったが、『オーガ(ニ)ズム』はそういった設定が抑制され(象徴的なのが三部作のトリックスター金森年生の小児性愛禁止である)、子供を守るパパが活躍したあげく、日本の子供たち――アメリカによる戦後日本の外傷につらなる種子――がアメリカの良心(多様性)をまだ体現しているバラク・オバマを倒すという古典的スターウォーズな父殺しに、これもまた縮減されている。私にはそう見える。連載が長期にわたったこともあるとはいえ(16年11月~19年6月)、あのコドモ然としているドナルド・トランプが君臨した時代(17年1月~21年1月)にこの設定は致命的だったのではないか。いうまでもなく文学作品は、国際政治をよりリアルに記述することを求められるものではない。戦後来の日米関係に対して中国やロシアに対する目配せもしている『パンとサーカス』の方が『オーガ(ニ)ズム』よりもその点で優れているとはいえるが、しかしそんなことをいえば、他にいくらでもいるだろうより優秀な政治学者の発言を聞いていれば足りる話である。逆に、文学における王殺しなど茶番ではないかというアイロニーが読み取れる点で『オーガ(ニ)ズム』の方が『パンとサーカス』よりも文学的には優れているともいえるだろう。ただししょせん僅差でしかない。もちろんそれは「政治と文学」というテーマに置いてみた場合である。
 テストケースとして、ここにテロを予言したというもう一つの小説を置いてみよう。樋口毅宏の『中野正彦の昭和九十二年』(22年12月)である。女性や中韓に対するネトウヨのヘイト発言が出版社内で問題視され、刊行後ただちに回収された作品である。この時評でも取り上げたことがある。この作品の帯には「安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」が謳われていた。いまや読むことが容易ではない作品を例にあげることは気が引ける。しかし上記二作品の欠点をあげるにはこの作品に言及する必要がある。『中野正彦の昭和九十二年』は現在の文学における政治の所在をおそらく理解している。それは当事者性の問題――要はマイノリティ・ポリティクスのことであるが――にほかならない。具体的には、女性や中韓にヘイトを撒き散らすネトウヨという当事者性フレームを実装し、そこから世界(王殺し)を叙述していったことである。私はここに古谷経衡の『愛国奴』(18年6月、現在は『愛国商売』)や笙野頼子の『発禁小説集』(22年5月)――というより笙野に関しては現在形にいたるプロセスに興味があるのだが――を並べてもよいと思っている。誤解を避けるためにいっておくが、いまは文学的に優れているかどうかを議論しているわけではない。また私は凡庸なリベラルであり、彼らと政治的主張を同じくするものではない。いずれにせよ、絓秀実が『中野正彦の昭和九十二年』に差別の問題をクリティカルなものとして読み取っていたことに改めて注目しておこう(「リスクと「不気味なもの」――樋口毅宏著『中野正彦の昭和九十二年』(イースト・プレス)の発売中止問題に触れて」https://note.com/bungakuplus/n/nd3368d52c599)。絓にいわせれば、これも「六八年」の問題であろうか。
 三部作が世に問われた二十年。島田も阿部も当事者性の問題を誰よりも知っていたからこそ、その政治が前景化する時代に対応することができたということができるかもしれない。しかしその対応は否認という形で行われた。島田は天皇が最たるマイノリティの一員であることを一貫してテーマにしてきたし、『ニッポニアニッポン』(01年8月)『グランド・フィナーレ』(05年2月)の阿部は、ロスジェネ第一世代(?)の形象化においてネトウヨや表現の自由戦士的な文脈を先取りしていたはずである。彼らはそれを否認するという形で「政治と文学」のテーマのみを延命させようとしたのではないか。否認を促しているのは、誰をも傷付けまいとする行動原理である。多様性を保証するあの戦後民主主義的な「良心」。またの名をポリティカル・コレクトネス。そのPC的「良心」を『スノードロップ』ではおそらく「美しい魂」と呼んでいる。「「良心」すなわち「美しい魂」」と。そしてそのPC的=戦後史的「良心」が、フィクション上に何度もくり返されてきた王殺し――天皇への同化とオバマとの対決――をまたもや招き寄せ、現在の政治に対する視線を曇らせているのだとすれば? むろんこれは私の見立てにすぎず、かりに当たっていたとしても、キャンセルされるかもしれないという大博打のもとなかなか作品は書けないものだが。
 ここでいきおい余計なことをつぶやいてしまうと、文芸誌に縛られた作家は、PC的なものに対する配慮からだろう、作品と作品外の政治的内容が加速度的につまらないもの――毒にも薬にもならない――になっているということも付け加えておこう。だからといって、大江の時代を懐かしむことも、島田の放言を陰でほくそ笑むことも違っているが、文学と政治の関係に少しでも関心があるなら注意しておいた方がよいのではないか。

 私はいま文学史を世代から記述するということを考えている。世代史としての文学史。十年程度だと歴史にならないが、戦後三世代を超えると――よほど戦略的でない限り――抽象化し、ぬるい文学史になるだろう。だとすればその中間、自分の世代くらいにとどまってみるのもよいのではないか。これまでの議論に引き付けていえば、文学史を当事者のフレームから記述するという試みにほかならない。逆からいえば、当事者性に――いままでは欠けていた――歴史を導入する試みである。そうして文学史を鍛えたい。すでに私たちはそういう意味での世代史の先行例を知っている。絓秀実の「六八年」である。もちろんある特定の時代全般ではなく、特定のテーマで絞り込んでもよい(世代を縦軸にし、テーマを横軸にするというイメージだ)。その先行例が、大塚英志の「サブカルチャー文学史」であり、斎藤美奈子の「L文学史」である。先ほどの島田と阿部の三部作をめぐる素描は、「政治と文学」というテーマによる直近二十年間の世代史というわけである。それらはバイアスのかかった個人史でありながら、世代を通じて一般化されうる。一定の強度を持っていれば教育にも運動にもなるだろう。要は客観的に記述される文学史――だから権威にもなるだろう――ではなく、自分が帰属する歴史を記述するという単純な話だ。冒頭の話に戻れば、文学史に固有のリズムを打ち付けるといってもよい。村上春樹がときに過度な絶賛と嫌悪をその評価にともなうことは知られている。その屈折した評価は作家と「六八年」を共有する世代がもたらすものだ。悪くいえば(その世代ではない立場から見れば)ひどくこじらせている。歪んだフレームだから。しかしそれでよいではないか。羨ましいぞ団塊の世代、と思ったり思わなかったり。そういう意味でもゼロ年代文学論やロスジェネ文学論は今後もっと記述されてしかるべきだろう。

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