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考えるあゆみ(第四回)

ためらうことなく逃げてきた なかむらあゆみ

 おととしの9月、「いつでも逃げられるように」というタイトルの短いエッセイをnoteに書いた(https://note.com/tsunagaru0607/n/n5abec6c7d8c6)。人生何が起こるかわからないから、いつでも逃げられるように家の荷物は増やさないようにしているという内容の話だ。阿波しらさぎ文学賞を受賞したばかりで、自分史上最高にまぶしい光を当ててもらっていた頃にどうしてそんなことを書いたのかはっきりとは覚えていないが、おそらく慣れないことが重なり、ちょっとつらくなっていたのかもしれない。元来、私は子どもっぽくて臆病で意気地もない上、思春期のイジメ体験をいつまでもぬぐい切れずにいるので、すぐ逃げだしたくなるし、実際いろんなことから逃げてきた。学校、地元、職場、結婚生活――あまりにためらうことなく逃亡するので、いろんな人を驚かせ、呆れさせ、迷惑をかけ「人として常識がない」と当たり前の言葉を何度もぶつけられた。それらは何十年経っても唐突に脳裏によみがえり、私を辱める。極まった私は奇声をあげ、うなだれ、めそめそする。逃げたとて完全な安全地帯などどこにもなく、結局は問題が先延ばしになったり、違う種類の苦しみを味わっただけではないか――。それでも逃げたこと自体を後悔したことがないのは不思議だ。小さい頃、共働きだった両親の自転車やオートバイの後部座席に乗り、祖母の家(山沿いにある暗い旧家)に向かう時の切ないような寂しいようなあの気持ちも、思春期の頃、県道沿いの小さな旅館(看板には一泊2200円と書いていた)に憧れのような感情を持ち「いざとなったらここに……」と夢見ていたことも、今にして思えば「逃げたい欲」だったのだろう。裏庭に基地をつくって食料を貯めこんだり、部屋の中から窓の外をぼんやり眺めては、ここではないどこかを延々妄想したのもきっとその類。大人になってからは、あてのないドライブや映画、お酒、一人山登りや旅、読書、無口と無関心(なふり)で現実逃避しては心の安定を保ち、それでもダメなときは体ごと逃げた。つまり年がら年中、どんな環境でも「逃げたい」気持ちを持ち続けている状態が自分にとっての当たり前だった。それが変わったのは39歳で二度目の結婚をした時。「ここから逃げたくない」という感情が生まれ、あっけなく心身を病んだ。初めて手に入れた安住の生活と家族を失いたくないと強く願いすぎた末の不安神経症だった。幸福な状態を素直に受け入れることができないなんて、なんてやっかいな性質なのだと我ながら呆れた。あれから10年、今はこんなややこしい私のメンタリティを家族、友人、仕事仲間が嫌になり、いつか逃げやしないかという恐怖感で悪夢ばかり見ている。

春の雑記

3月18日 夜中、クマンバチが飛んでいるみたいな大きな音がして飛び起きたら夫のいびきだった。静寂を切り裂く恐ろしい破壊力に夫を起こすこともできず、布団に潜り込む。

3月20日 昨年末、小さな仏壇を買い、仏さんをお迎えした。作法などよく解らないので「気持ちが大事」と見よう見まねで水や塩、庭の花や団子、ビールなどをお供えしている。お世話しているつもりで悦に入る自分をご先祖さまは全て見透かしているだろう。格好つけても私の過去の愚行が仏壇界隈では既に知れ渡っているかもと思うととても緊張する。だからリンを鳴らして手を合わす時はこれ以上心を読み取られないようにできるだけ頭を空っぽにして仏さんと向き合おうとするけれど、これが難しい。大体何を呟くのが正解なのかわからない。ご先祖さまに感謝した上で、「今日も無事で過ごせるようお守り下さい」などと手を合わせるつもりが、つい「腰痛治って」「原稿が少しは書けますように」「息子がテストで……」と慎みなく欲望が次から次へと頭に浮かんでしまう。

仏様をお迎えする前の仏壇

3月23日 自分が写った写真を見て顔が四角くなってきていることに気づいた。先日、数年ぶりに会った友人が私の顔をじっと見て、もの言いたげな表情をした原因はこれだったのかもしれない。「お互い年取ったしね」と目じりに皺を寄せる友人の可愛い丸顔が目に浮かぶ。私も彼女みたいに丸顔のまま老けていきたい。何か解決策はないかと、インターネットで「顔 加齢 四角」と検索したら99200件も出てきてびっくりした。なんだ私だけじゃないんだとちょっと安心はしたけれど、四角化に抗いたい。

3月25日 夕食後、夫から「また休職するかも」と聞かされる。夫はうつ病のため昨年2か月間会社を休んだのち、年明けから復職していた。「――そうだね。最近しんどそうだったし、無理しない方がいいね」ビールを一口飲み、何でもない顔で同調した。「どうしてもやらないといけない仕事があるからしばらくは頑張る」と無理を重ねていたのだから当然だ。だけど、この数か月、夫が何も言わずに通勤していることをいいことに、もしかしたら病気も自然に治ってきているのかもしれないと淡い期待を持っていた。トイレの中から夫の低い嘆き声が聞こえ「獣みたいやな」と思う。テレビを観ていた息子が振り返る。以心伝心。視線を交わし微笑み合う。

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