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干さオレ~二子玉死闘篇~(第五回)

文芸時評・11月 荒木優太

 アニメのキャラクターの髪の色ってとても不思議ですよね。ピンクとか紫とか緑とか。現実世界では奇天烈極まりないというのに、鑑賞している方はほぼそれを変と思わずに受け取っている、受け取れる。そろそろ最終回が近いと噂されている『ワンピース』でいえば、主要登場人物でもあるライトグリーンの頭髪は、世界一の剣豪を目指すキャラクターと認識させても、大胆な髪色でなにか主張しようとするティーンめいた自己表現であるとは決して読みません。というより、あれがナチュラルなものであっても一向構わないはずです(そしてキャラクターの性格的にはむしろそっちの方がずっと自然だと感じられるでしょう)。
 私の直観が正しければ、アニメという表現媒体においては、どんな髪色を選択しようが、それがナチュラルであるという信憑(説得力)が自動的についてきてしまうのではないでしょうか。別言すれば、アニメとは、変わった髪色の人を描くのがひどく難しい表現であると定義づけられるのではないか。どんな奇矯な色を指定しようが、すべてが自然化してしまうから。
 この特徴はキャラクターという概念のなかにある、なにか核のようなものに触れている感じがするのですが、ここで大きく旋回して小説に目を移すことにしましょう。というのも、アニメとは反対に小説では、赤であれ青であれ白であれ、ほとんどの場合、黒字によって印刷されるからです。読者が小説を読むとき、物理的にその瞳に反射しているのは白の地に踊る黒の斑点の無限のバリエーションでしかありません。にも拘らず、世にある決して少なくない小説は自身をカラフルな表現たろうと努めます。
 須賀ケイ『蝶を追う』(群像)は、ドイツで装幀修復業を営む日本人男性の話で、依頼された本にまつわる種々のエピソードを探訪しながら、認知症らしき妻との付き合い方を見つめ直します。同作者の前作『木の匙』は死刑囚の最後の晩餐をつくる料理人の話だったわけですが、あれを読んだ人なら、『木の匙』の本修理業者版と捉えると理解が早いかもしれません。表題に「蝶」があるのは、幼い主人公にとってその道に入るきっかけとなったのが絵本『はらぺこあおむし』で、蝶は青虫が成長した姿であると同時に、「色覚」と「色の恒常性」を兼ね備えた昆虫であることに由来しています。「色覚」は色を識別する能力をいうわけですが、後者の「恒常性」とは環境の光の加減が変化しても色の見え方を一定に保とうとする特性を指します。夕焼けで街の風景が赤っぽくなったからといって青・白・灰の看板なり屋根なりが識別できなくなるわけではありません。脳内で補正が働いているからです。私はこれが面白いと思いました。
 幼い主人公は、空の色を尋ねられても上手く言葉にできず、あえていえば「マラカイトグリーン、ネープルスイエロー、バイオレット、リラ、レグホーン、ウイスタリア、バーガンディー、エクルベージュ、グラファイト、ほかにも、たくさん」という複数色を列挙する以外に仕様がありませんでした。直後、質問主(これが実は主人公の妻になる女性なのですが)はその答えを肯定するかのように、「色彩は人によって見え方が全く異なる」とし、国によって「虹」の色の数が違う有名な例を挙げます。日本は七色、ドイツは五色、アメリカは六色云々。ここでのメッセージは要約すると二つ、つまりは言葉は無能であり現実はより豊かであるということ、もう一つは色の分け方は恣意的でありその決定には個人の実存があるだけで正解などない、と整理できるでしょう。
 ただ、思うに、このメッセージと虹色の各国性は実は背反しているのではないでしょうか。というのも、本来は無限のスペクトラムだけが広がる色の世界のなかで、七色であれ五色であれ、国によって一応の分け方を指定できるのは、それが個人的な分節である以上に共同的な規範に組み込まれていることを明かしているからです。いうなれば、比喩的な意味でも「色の恒常性」があり、外光がどう変化しようとも一色を一色として固定しようとする予断があって、しかもそれは個人の経験や努力とは無縁なところで成立しているようにみえるのです。色なるものが連続体でしかなかったとしても、蝶は確かに花らしい色とそうでない色を識別し、生物学的に備わる本能でもってそれらを自動的=自同的に選別します。
 現代、レインボー・カラーがLGBTの象徴となっていることを十分承知したうえで、それでもなお、色は色々ある/あっていい、とするフィクションを私はちゃちなものだと思います。色々あっていいはずなのに、実際はいくつかのパターンに収束されてしまうところに問題の急所があると考えるからです。
 「ここ二年間、彼女たちを擁護する言葉も非難する言葉も救済する言葉も、そこかしこに溢れているのに、私にとって必要な言葉は十年間、一度も見つけられたことがない」。鈴木涼美『グレイスレス』(文學界)も言葉の無能と色の多彩を訴えており、須賀作とぜひ一緒に鑑賞されるべきものです。主人公はポルノ女優の化粧師の女で、顔面が精液で汚され自分の仕事が常に無為に帰すかのごとき現場のなかで、それでもなお仕事に誇りを覚えます。「新品のカーキ色の化粧品」を開けると、「細かい粒子が入っていて、窓の近くに持っていくとそう簡単にどの色と言えないほど多彩な粒子が光」ります。色の断定が容易にできないように、ポルノ女優という職業・産業の良し悪しにも幽玄なところがあるとする物語構造はとても分かりやすい――ジャーナリスティックな読者ならば背後にAV新法への間接的なリアクションを読み取るかもしれません――。
 ここにいささかの凡庸さを感じなくもないのですが、ポルノ現場と折衷で語られる祖母との共同生活のなかで、祖母が「ピザ」を褒める挿話にははっとさせられました。「ピザって明るくていいね」という祖母に対して「この家には洗面台以外ほとんど色がないから」と化粧師は返しますが、祖母はそれに「後でゆっくり家の中を歩いてごらんなさいよ」と反駁します。モノトーンにみえる家のなかでさえ実は色に満ちているというわけです。これ自体は、色は色々ある/あっていいのお説教にすぎません。ただ、この小説における多彩な色は、男性優位でときに暴力的な貌を露わにするポルノの現場と地続きにあり、翻っていえば日常のなかに潜むポルノ的官能へと誘う蠱惑的な挑発のようにも響きます。たとえば、ルッキズムでなにが悪いか、という多くの人がぼんやりと抱きつつも口にするのは憚られる本心をこの表象に託してみてもいいでしょう。
 今月は『新潮』『すばる』『文藝』で新人賞が発表されました。なかでも読み応えを感じたのは、文藝賞安堂ホセ『ジャクソンひとり』です。ブラック・ミックスであるジャクソンは、自分によく似た男が映るポルノ動画の拡散をきっかけに、同じブラック・ミックスの仲間たちと共謀して各人の日常生活での入れ替わり作戦に興じます。意外や意外、『ジャクソンひとり』も『蝶を追う』や『グレイスレス』と同じ袋に括れる物語だと思いました。なぜかといえば、その入れ替わり作戦を支えているのは、ブラックの肌ならばあの人もこの人も同じだとする解像度の低い人間観だからです。作中には「褐色」の意味を問われ、「アフリカンもラテンもタンニングも意図的に一緒くたにするクソみたいな言葉だよ」という返答が出てくるのですが、その「一緒くた」の政治に、空や家に宿る言表できない色彩の指摘を重ねても決して不自然ではないでしょう。
 彼らの復讐は、色々ある色を識別できない/一色に還元してしまう鈍感を逆手にとって、『君の名は。』風の入れ替わりで社会をコケにしていきますが、それが本当に「復讐」になっているかについては議論の余地があるかもしれません。その営みは、ブラック・ミックス内のグラデーション的差異にブラック・ミックス自身が敏感になるのには大いに貢献するものの、ホワイトに代表される独立した(と信憑される)色の牙城を突き崩すには一歩足りないように見えるからです。Netflixでも配信されているガイ・ナティーヴ監督の短編映画『SKIN/スキン』が、露骨なほど教訓じみた反転劇を採っていたのを思い出せば特に。ただ、そういう分かりやすさに回収されまいとする姿勢が後半のごちゃごちゃした展開もふくめてこの作の魅力であることも確かなので、なかなか難しい。
 以上三作は、細かなところで保留や但し書きをつけたいにしろ、やはりまだ総体的には、色は色々ある/あっていいの重力に引かれていると思います。私としてはぜひそこを突破してもらいたい。そういう目で眺めていると、おやとひっかかったものがありました。津村記久子『買い増しの顚末』(群像)です。祖父の遺品である「レターB」という商品名の緑色のペン全168本をTwitterで売りさばく短編です。「B」とは「bold(はっきり)」の頭文字で、ここで出てくる「緑色」は先行三作と違って色彩的同一性の拡散や動揺をもたらしたりしません。緑はどこまでいってもただの緑です。それにしてもペンの緑というのは、黒や赤に比べれば圧倒的に汎用性が低く、それ故に処分するのにも難儀するわけですが、祖父はなぜわざわざそんなものを選んだのでしょうか。それは「きどさ」、つまりは白の紙と黒の字のように輝度差が激しいと対照で目がチカチカし読字には向かないという老いの知恵として選ばれたのが緑なのでした。輝度差、とても刺激的なアイディアだと思いませんか? 色々ある色はその並べ方によって(ある人にとっての)その刺激が強まったり弱まったりする。並べ方にこそ人の意志の所在がある。〈色と私〉ではなく、〈色と色〉でもなく、〈色と色と私〉の三項関係で世界を捉えること。とても含蓄のある短編だと思いました。
 ところで、柄にもなくデスマス体でここまで綴ってきたのは、平尾昌宏『日本語からの哲学――なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』(晶文社)に影響を受けたからです。とても興味深いことが論じられているので、ぜひ読んでみてください。

▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)など。昨年11月に『転んでもいい主義のあゆみ―日本のプラグマティズム入門』(フィルムアート社)を刊行。

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