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震災後の時の経過の中で考えること――『ららほら2』「美しい顔」「当事者」

【書評】日比嘉高

1.『ららほら』から『ららほら2』への道程に見る「つらさ」

 文芸批評は今つらいところにいるなと、『ららほら2』を読み終え、あらためて思う。一冊目の『ららほら』が響文社から出たのは、2019年4月。B5判ハードカバーで259頁の、がっしりした本だ。クラウドファンディングで資金を獲得し、地域アート的に人のつながりをたぐりながら編んだ本だという。私の手元にあるのは第2刷で、初刊から2ヶ月後の6月の日付をもっている。この本は、東日本大震災で被害を受けた「当事者」や──当事者に「 」を付す理由は後ほど述べよう──、被災地を拠点、あるいはフィールドにしながら活動を続けるアーティスト、ジャーナリスト、研究者の言葉をあつめたものだ。一方、私がここで主に取り上げる『ららほら2』は、A5判ソフトカバー、208頁。細かいポイントの活字が二段組みで並ぶ、やや簡素な作りだ。
 『ららほら』は「被災地の「言葉」をつなぐ文芸誌」とそのカバーにうたっていた。編者の藤田直哉は、その目指すところを次のように述べている。「あまりにも多くなり過ぎた平板な「公的な」声が掻き消してしまう(かもしれない)私的で、必ずしも有用性のない声の響きに徹底的に拘ることから結果として到達すべき「公的」かつ「公共的」な役割というものもあると思うのだ。ぼくはそれこそが、文学の公共性だと信じる」(8頁)。一方、『ららほら2』は「震災後文学を語る」という副題をもち、「東京で活動する(広義の)文芸批評家」(Ⅳ頁)と藤田直哉との対談および会場に集った人々との質疑が文字おこしされて収められている。
 文芸批評はつらいところにいる、と私が感じた理由の一つは、この『ららほら』『ららほら2』の刊行の経緯そのものにある。『ららほら』は、「文学の公共性」を目指した藤田の意図に反し、集まった原稿はいわゆる「文芸」作品ではなかった。『ららほら2』に収められた仲俣暁生との対談において、藤田は「最初はやっぱりフィクションを書いてもらいたかった」といい、「でも、やっぱりそうはならなかった。それが、一つのリアルだとぼくは理解するしかなかった」と述べている(13頁)。
 「文芸誌」の名を掲げて編集されたにもかかわらず、フィクションが選ばれなかったということ、その事実に滲むつらさ。文芸批評が文芸作品を論じることをその存在要件の一つとするならば、フィクション──ここではひとまず小説と置き換えておく──が選ばれない世界において、文芸批評はその身の置きどころを探しようがない。
 これは、声をかけられた人々の資質や創作的スキルによるものだろうか。たしかにそれもあるだろう。一定の長さを持つフィクションを、未経験の者が依頼されて急に書けるものではない。あるいは、東日本大震災という出来事の大きさによるものだろうか。それもたしかにあるだろう。『ららほら』を読めば、経験や考えを文章にすること自体に今も困難を感じている寄稿者たちが少なくないとわかる。ましてフィクション作品にすることなど、容易にできはしないだろう。
 だが『ららほら』の外にまで目を広げれば、小説を中心とするフィクショナルな言語芸術が、以前よりもアピールの力を失っていることもたしかではないかと思える。大手商業文芸誌が、フェミニズムや国語教育などといった時事的な話題を取り込み、創作よりも論考や対談を前面に出すことはいまや珍しくはない。あるいは、岸政彦や上間陽子らのような社会学者や教育学者が書くフィールド・ノート的なテキストやエッセイには専門的な枠を越えた広い読者がついている。私は、そうした読者たちの何割かは、かつてであれば小説を手に取っていた読者だったのではないかと推測している。
 求められているのは、人の手触り、なのではないかと思う。そこに生活者がいて、こうした日々を営み、こんなよろこびや苦しさを抱えている。切り取ったある断面から、その人の相貌をたどり、生活の輪郭を浮かび上がらせ、背後にある事情をほのめかせ、そして読者自身の生きる社会とのゆるやかな接続を感じる。このたとえが通じるかわからないが、NHKのドキュメンタリ番組「72時間」感、とでも言おうか。
 いうまでもなく、エッセイであれドキュメンタリであれルポルタージュであれ、そこに登場するのは実在の人物であり、なんらかの「当事者」である。本当に起こっていること、本当にいる人、という事実の力強さが、ここにはある。生活する「当事者」の手触りの、有無を言わせぬリアリティに触れたいと思っているのならば、わざわざフィクションなどという迂遠な、まどろっこしい回路は不要である。ましてそのフィクションをことさらに取り上げ、こねくり回す批評の言葉は、蛇足にさえならない。
 ただし、こうしたフィールド・ノート的作品やエッセイの表現の様態に目を凝らせば、その文体が近代小説の練り上げてきた散文の延長上にあることもたしかなのである。近代の散文作品は、その当初からフィクションとノンフィクションのあわいを縫いながら発展した。人の手触りを描き出す現代の散文作品が、近代小説と遠いものだと私は考えない。動いたのは散文の文体であるよりも、いっそう読者のジャンル意識の方であるかもしれないのだ。
 私自身は、『ららほら』も『ららほら2』も関心をもって読んだが、やはり現代においては「当事者」のエッセイが集められた前者の方が、読者の幅は広いのだろうと判断する。批評家たちの対談を集成した後者は、かなり限定されたコアな読者だけが手に取る類いの本だ。それでよい、というのが『ららほら2』の立場のようである。それもありだろう。ありだろうが、さみしいこと、つらいことだとも思うのだ。

2.SNSの「検閲」と文芸批評の「つらさ」

 文芸批評のつらさ、その理由の二つめは、ネット言論からの圧迫に由来する。『ららほら』『ららほら2』の中で、編者の藤田は、くりかえしこのことに言及している。「SNSなどを中心として、震災を巡る言説空間が、あまりにも綺麗事になるか、あまりにも政治的なイデオロギーになるかばかりで、異質で細やかな言葉や思考や感情に向き合わないようになっていた」(『ららほら』7頁)。「SNSなどが非常に発言しにくい状況になったなという問題意識があります。ある種の民間検閲的な状況になった」(『ららほら2』11頁)。
 二つの発言でニュアンスは違う。前者は、ネット言論が不得手な、細やかな言葉、思考、感情を紡ごうとしたということを言っており、後者は、SNSによる批評の言葉の「検閲」に言及している。より影響が大きいのは後者の方だろう。前者は単に棲み分けの問題としてカタが付くが、後者はネットの言論が批評を圧迫ないし制限しているということを言っている。藤田は、『ららほら2』のあとがきで、「安全に語る場が欲しかった」といい、「小さな、私的な、影響力の少ない場で語る」ことを選択した(200-201頁)と書いている。藤田のような、著作も多く、人前に出る機会も多い、経験を積んだ批評家がこのような述懐を行うことに、私は少なからず驚いた。驚いたが、その感覚は私も理解できるものではある。
 Twitterに顕著だが、ソーシャル・メディアの空間において、なにかの風向きで特定の個人や集団、組織が恐ろしい攻撃を受けるさまを、私たちは何度も見て来た。それは不祥事を起こした会社であったり、反感を買った政治家やタレントであったりしたし、日本に在住する外国籍の作家であったり、女性の人文系研究者だったりもした。私自身も罵詈雑言の類いを何度も投げつけられた経験があるし、率直に言えば、ここ1、2年でソーシャル・メディア全般に忌避感を持つようになってきている。
 いまや文芸批評はそれが刊行された瞬間から、ネットの言論空間の俎上に載る。そこには作品を書いた当人たる作家もいれば、掲載誌や他誌の編集者もいる。同業の批評家や研究者もいる。そしてなにより、活発に発言をする文芸関係のアカウントがおり、少し事実と違うことやおかしなことを言えば、あっというまに指摘が来る。内容に関わるまっとうな指摘ならそれはよいが、なんらかの「地雷」を踏んでしまうことによっていったん火がつけば、雪だるま式に野次馬が集まり、経緯を知らないままなされる表面的な非難や攻撃の言葉が集まりだし、関係のない属性や以前の発言が掘り起こされ、炎がどんどん大きくなっていく。避ければいい「地雷」は避ければいいだけだが、批評を行うならば危険と知っていながらも踏まなければならない「地雷」も出てくる。
 批評とその読者をめぐる風景──これは創作に関しても同じだが──は、大きく変わった。「民間検閲」と呼ぶかはともかく、批評の言葉を放つ際の緊張感の質や、想定する言葉の受け手の質が、様変わりしている。震災後10年という時間の経過は、こうした批評とネット空間との距離感の変化を語るものでもある。
 ただ、言論の空間はもう活字の時代に後戻りすることはない。ソーシャル・メディアの時代は早晩次のプラットフォームが形成するパラダイムへと移行するだろうが、個々の批評家や作家が、情報メディアを介して、直接読者とつながりうるような様態は続くだろう。コンテンツの細切れ化と選択的受信化はさらに進展するだろうから、エコー・チェンバーの効果もさらに上がるかもしれない。
 ソーシャル・メディアには、たしかにうんざりだ。だがうんざりの原因は、ソーシャル・メディアを使う人間たち自体にあるのだろうから、たとえTwitterやFacebookが来たるべきサービスXやYに置き換わったとしても、そのうんざりさはかわらないと覚悟しておくべきだろう。批評の言葉もまた、その覚悟が必要ではないのか。つらい、ことである。 

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