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ポエムはみんな生きている(第五回)

〜Time To Say Goodbyeゼロ年代のワナビーたち〜
松波太郎『カルチャーセンター』論  ni_ka

ワナビーが消えた。
私ni_kaが学生だったいわゆるゼロ年代(2000年代)までは、「ワナビー(wannabe) 」という言葉を、文化系界隈で頻繁に耳にした。
作家志望者・画家志望者・歌手志望者・漫画家志望者など、さまざまな分野にわたり、自分をワナビーと自虐したり、他人をワナビーと貶めたり。そんな使い方をされた言葉がワナビーだった。 

かつて、法学部では、旧司法試験に何度もチャレンジし続ける学生や、司法試験浪人生を、「法曹ワナビー」と揶揄したり、「僕、官僚ワナビーでぇす」と飲み会で自己紹介したりする風潮もあったり。「弁護士を目指し、司法試験の勉強をしています」「国家試験をパスして官僚になりたいです」と素直に言えばいいのだけれど、シュガースプーン1杯分ぐらいの屈託がある学生や夢追い人は、あの頃は自分を「ワナビー」と称した。

ワナビーたちの、己が目指している分野の何者かになりたいという夢と希望は、日々風船がふくらんでいくようにパンパンになっていた。けれど、そんな膨らんだ風船のような夢を、胸の奥で苦悶しながら押し潰し、バンってはじけて割れそうなくらい、「憧れの分野で何者かになりたい」という憧憬を抱きしめ続けて、ワナビーたちは日々をやりすごしていた。

憧れの分野の内側の人になりたい。その職業集団の内側の人になり、その場所や業界で、評価や報酬や承認を手に入れたい。そんな強い渇きがワナビーの焦りを加速させた。けれど、どうにも現在の自分(や競争相手)は、内側には入りきれておらず、憧れの分野の周縁、フリンジをウロチョロするしかなくって、業界の噂話に花を咲かせたりして、やるせなさをごまかしていた。

アマチュアで中途半端な立場な人間だと自覚していたワナビーは、プロフェッショナルとアマチュアのヒエラルキーの高い壁が明確にあった時代の産物だった。また、どうにもこらえ切れないテヘヘ感、要は“照れ”が世の中にあった時代の産物でもあった。そんな時代だったゼロ年代の大学や巷には、ワナビーがあふれていた。

だけども、2022年現在では、ワナビーなんて言葉はすっかり廃り、Twitter検索してみても、自称ワナビーの自嘲も、他者への軽蔑のまなざしとしてのワナビーという言葉も見当たらず、消え去っている。では、雲散霧消したワナビーはどこへ行ったのか?

表現をしたいという欲求や承認への渇望が人から消失することなどはありえないわけで、アンサーはちゃんとある。かつてのワナビー的な人たちは、インターネットの中に雲合霧集している、それもいきいきと。

ワナビーという存在や概念の代わりに、底辺YouTuberとか底辺歌い手とか底辺絵師なんて罵りや自嘲がネットに溢れだしている。底辺であっても、YouTuberだし、歌い手だし、絵師ではあって、決してYouTuber未満のYouTuberワナビーや、歌い手未満の歌い手ワナビーではない。ネットに自分の歌をアップロードすれば、歌い手(歌手とは異なる)だし、自分の絵をアップロードすればネット絵師(画家やイラストレーターとは異なる)になるのだ。
ネット小説家やネット詩人も同様だ。彼らはワナビーではない。自分の作品を世に発表済みの、ネット作家なのだ。もはやワナビーは存在しない。

ゼロ年代に、ネットはもちろんあったし、「魔法のiらんど」などを中心に、ケータイ小説と呼ばれる携帯電話で書かれ読まれる小説文化も登場していた。「魔法のiらんど」で連載していた美嘉『恋空』なども大ヒットし、ゼロ年代に、若い女性を中心に流行していた。ちょうど松波太郎『カルチャーセンター』の舞台になっている時代のことだ。「pixiv」は2007年発足だし、「小説家になろう」は2004年発足だ。「文学極道」などの詩の投稿サイトなども当時から存在していた。けれど、現在のように、ジャンル等が細分化され多様化された数え切れないほどの、投稿サイトやSNSはまだ存在していなかった。自分にフィットする投稿サイトを選べるほどの投稿サイトやSNSの種類がなかったのだ。
現在のように、パソコンで書いてパソコンから投稿してもよいし、スマートフォンや他の端末で書いても投稿しやすく、参入がラフにできるようデザインされたネット環境はゼロ年代のケータイ小説ブームなどを経て徐々に整ってきた。また、何より、ネットの投稿サイト等への差別意識や偏見が弱まったことが大きい。例えば、「魔法のiらんど」の小説を、当時の文学ワナビーたちがなぜか見下すような傾向もあり、ネットで文化活動をすることへの無理解や偏見も当時は色濃くあった。「しょせんネットでしょ?」といったように。

しかし、現在、小説投稿サイト『小説家になろう』や『魔法のiらんど』などで自作小説を発表している人たちの自己紹介には、ワナビーという言葉はもちろんみつからない。「なろう系で小説書いてます」などの自己紹介が一般的であり、自意識としても、現在のネット表現者たちはかつてのワナビーではない。
ネットの表現系のプラットフォームが現在のように整備される以前のワナビーは、例えば小説を書いていても、読んでくれる人が一人もおらず、出版社の新人賞などに出す以外、発表の場所もないし、どんな風に読まれるのかもわからないので、カルチャーセンターなどに通い、カルチャーセンターではじめて自分の作品を複数人に読んでもらったり、講評してもらったりしていた。

あるジャンルの周縁をグルグルと彷徨い、そもそも中心や核心なんて存在しているか不明なのに、その中心に向かって、あがき続けたかつてのワナビー的な人たちを、ごっそりインターネットが吸収した。ネット環境の充実や、スマートフォンの普及や、表現系プラットフォームの多様化や洗練で、ネットのサイトやSNSは、そのまま彼らの居場所となり、表現の発信者としてのアイデンティティも確立させ、彼らを何者かにすでに仕立て上げている。

一歩だけふみだして、ネットに自分で何かをアップロードさえしてしまえば、その瞬間に何者かになれてしまう時代になった。そう、ゼロ年代まで生息していたワナビーは葬られたのだ。当然、自分の表現の受け手やファンが多いかとか、その界隈でリスペクトされているかとか、認知されているかなどのヒエラルキーはネットの各場所ごとに存在しているのではあるのだけれど。

アマチュアとプロフェッショナルの、かつての強固な隔たりは、ネットとスマートフォンにより、限りなくシームレス化し、身も蓋もない話をすると、表現によるお金の稼ぎ方や承認の満たされ方も、アマとプロに絶対的な壁があった時代よりも、より曖昧になり、アマとプロなんていう垣根をいとも簡単にスムーズに移行してゆける環境に変化した。なんならアマチュアリズムの方が、影響力や人気や収入面で、プロフェッショナリズムを上回るケースも現在のネット環境では多々ありうる状態になっている。アマチュアのまま表現活動を行い、そのやり方こそが人気を支え、莫大な報酬や人気を得ることもよくある。もはや、ジャンルによってはアマとプロというわけ方が通用しなくなってきた。

そんなこんなで、ワナビーがトキなみの絶滅危惧種となった2020年代に、ワナビーがギリギリ最後に生息していた時代をベースにした小説が出た。初出は2020年の『早稲田文学 2020年冬号』で、著者は松波太郎、タイトルは「カルチャーセンター」。そして改めて単著として、2022年の4月に書肆侃侃房から松波太郎著『カルチャーセンター』が発売になった。

松波太郎の『カルチャーセンター』内では、ワナビーという言葉は使われていない。けれど、『カルチャーセンター』には、小説や思想を学び書くこと、文学や小説で認められることに命をかけ、模索するヒリヒリするようなワナビーがたくさん登場する。ワナビーたちの面倒をみる、飄々としたカルチャーセンターの先生なんかも登場する。

そしてさらに、ワナビーではない、いわゆるキャリア的な意味でプロフェッショナルとして2020年代の現段階で活動している、作家たちや編集者たちまで複数人登場する、というか、この「小説」に参加している。コロナ禍以前のカルチャーセンターという場所を見知った人なら、ああ、『カルチャーセンター』という小説のこの形式そのものが、カルチャーセンターの再現なのだな、ということにも気づくだろう。

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