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AI研究者・三宅陽一郎インタビュー   「AI研究は世界と知能を再構築する」   

文學界2022年2月号の特集「AIと文学の未来」から、山本貴光さん&吉川浩満さんによる三宅陽一郎さんのインタビューの一部を抜粋して掲載します。

三宅陽一郎
みやけ・よういちろう●1975年生まれ。ゲームAI開発者。京都大学で数学を専攻、大阪大学大学院物理学修士課程、東京大学大学院工学系研究科博士課程を経て、AI研究者に。『人工知能が「生命」になるとき』など著書多数。


■「知能」は定義されていない

山本 この特集では「AIと文学の未来」をテーマに、吉川浩満君と私で三人の方にお話をうかがいます。第三次と言われる今回のAI(人工知能)ブームでは、この言葉が広く使われるようになった半面、バズワード化して姿も捉えづらくなっていますね。

吉川 AIが人間をはるかにしのぐ知性を獲得する「シンギュラリティ」が起こるのではないかと恐れられてもいます。囲碁や将棋のようなゲーム、機械翻訳や文章の自動生成など、AIが威力を発揮している分野もあるから、気持ちはわからないでもないのですが。せっかくですから、AIっていったいなんなのか、根本的なところから探っていきたいと思っています。

山本 ということで、トップバッターは、ゲームAIの開発者としてAI研究者として第一線で活躍している三宅陽一郎さんです。デジタルゲームは比較的早い時期から流行の盛衰をよそにAIをつくり続けてきた領域ですね。というのもゲームでは、コンピューターがプレイヤーのよき遊び相手となる必要があるからです。ゲームではプレイヤー次第で状況も多様に変化するわけですが、そうした状況に応じて自律的に動くAIです。三宅さんはそうしたゲームに登場するキャラクターやゲームの世界をつくっています。

三宅 よろしくお願いします。

山本 三宅さんにまずうかがいたいのは、私たちが「人工知能」と言うときの「知能」とは、どのようなものなのか、です。いきなり核心に入って恐縮です。

三宅 実は驚かれるかもしれませんが、「知能」自体の定義は生物学、哲学、心理学など、それぞれの学問によってバラバラで、まだ定まっていません。ゆえに「人工知能」もいまだ定義されていません。それを踏まえて、お答えすると、「知能」には、広義と狭義の定義があると思います。まず広義から。リンゴとみかんを仕分けられれば、人間が来たときドアを開けられたら、パズルが解けたら、言葉を使えれば……と、とりあえず、そこで求められている知的な機能がありさえすれば、「知能」とする、という定義の仕方があります。
 一方、AIの専門家は、狭義の定義では、感覚で世界を認識し、思考で意志決定をし、世界に対して影響を及ぼす、この三つが揃ったものを「知能」とします。  
 今、AIについての認識が混乱しているとしたら、この広義と狭義の定義が区別されていないことに原因があるのかもしれません。

■「強いAI」と「弱いAI」

山本 「知能」について考える際、知能ではないものと比べて、知能か否かを判断するというやり方がありますね。思考で意志決定することが、狭義の「知能」の条件のひとつであるとのことでしたが、人間の精神には思考だけではなく、感情や意思などさまざまな働きがありますよね。狭義の定義では「思考の部分だけを知能と呼ぼう」と区別しているのでしょうか。あるいは感情や意思などの働きも知能に含まれているのでしょうか。

三宅 そこには精密な議論が必要です。狭い意味の「知能」について考えていくと、知能には深さがあります。例えば、ひとつのセンサーが反応すると、回路によって腕が動くと。これは一番浅い意味での知能ですね。このセンサーをリッチにしていくと、思考もリッチになります。一番浅い知能が一層だとしたら、専門家は一〇層、二〇層と重ねることができる。その中に人間で言えば、身体や神経網、脳のような内部構造ができてくるんです。
 このように層を重ねたとき、果たして精神や魂のようなものにたどり着くのか。その問いに答えるために出てきたのが「強いAI」「弱いAI」という考え方です。世間的には「強いAI」が深い知能で、「弱いAI」は浅い知能であると思われていますが、誤解です。AIが精神的活動を含んでいるのだとみなす、その哲学的立場が「強いAI」で、そんなものはただの機械による模倣にすぎないのだとする哲学的立場が「弱いAI」なのです。「強い」「弱い」は、AIの機能ではなく、人間の側の哲学的立場をあらわしています。この決着はいまだついていません。

吉川 広義と狭義のお話を聞いて思い出したんですが、この間、卓球の練習場に行ったんですね。そこに練習用のロボットがあったんです。それは、首振りをして左右にボールを送り込む機能しかないようなロボットでした。それで、小学生くらいの男の子がその動きを見て、「パパ、これAI?」って父親に聞いたんです。父親は、「うーん、これはAIじゃないかもしれない。○○君の技術や性格を読み取ってボールを送ってくれたらAIかもね」と答えていました。日常生活の中でも、私たちは広義と狭義で「知能」という言葉を使い分けているのかもしれません。
 あと、われわれはロボットが機械的な動きしかしていなくても、知性の働きを勝手に想定しますよね。ひとつのセンサーが反応して、腕を動かすだけの単純な機械であってもです。しかし、あえて「AI」と言う際には、もっと高い知性のようなものを想定していることが多い。「知能」の見方自体が、われわれの生活のその時々のプラグマティックな要求に埋め込まれているからこそ、AIの定義が難しい。

三宅 今、言っていただいたことは、重要なポイントを含んでいます。ここまでぼくがお話ししてきたのは、知能そのものの深さですよね。でも逆のベクトル、人間はどれだけAIを理解できるのかについての深さもある。その深さとAIそのものの深さはだいたい比例するんです。AIが浅ければ人間は浅くしか理解できないし、AIがある程度深い構造を持てば、それに比例した深さの理解を人間は持つことができる。
 例えば、ゲームでは、AIがユーザーの行動を予測できることが重要になります。そうする際、ユーザーをAIとみなす技術があります。AIと同じようにユーザーも動くはずだと想定するんです。つまりAIは自分自身の知能で、人間を測っている。人間もそうですよね。その人がすごく賢ければ、その深さで相手を測るし、浅ければ浅く測ります。
 もう一点、AIの受容については、人間の本能の問題も重要です。人間は本能的に、自然のものか人工物かを分け、自然の中でも動物か否かを分けます。動物は自分に危害を加える可能性があるからです。それは人間が大昔、大自然の中で生きていたころからの本能なのでしょう。草むらの中でガサっと音がしたら、本能的に振り向いてしまう。そこにクマがいたら逃げないといけませんから。
 それではAIを搭載したロボットはどうでしょうか。人工物でありながら、動物でもあります。そうすると人間は混乱する。人工物だけど、動くものをどう警戒したらいいのだろうと。人工物は安心だけど、動物は危険だというアンビバレントを人間はAIに感じるんです。

吉川 じつに面白いですね。ボストン・ダイナミクスのヒト型ロボットや動物型ロボットが踊ったりバク転しているのを見ると、私たちが不気味に感じてしまうのは、分類不能性があるからなんですね。

三宅 そうなんです。人工物だと思うか、動物だと思うのか。受け取る側の人間がどちらを強く感じるかで、安全か危険かを判断しているのだと思います。

■日本のAIは仲間

山本 AIを仲間だと思うか、怖がるのかの違いには、その国や地域の文化も深く関わっているでしょう。人間ではないものへの態度とか、機械をどう位置付けているかとか。例えば、日本と中国、アメリカ、ヨーロッパなどを比べるだけでも、AIへの態度が違いそうですよね。

吉川 対象が動物であるか否かに注目する傾向そのものは、おそらく人類に普遍的に備わっているものですよね。でも、その上に各地域の文化や慣習などが組み合わさって重なって、微妙な違いが生まれてくる。

三宅 これは単純化した話ですが、日本では「八百万の神」と言うように、カエルや虫、初音ミク、たまごっち……と、「みんな並列で、みんな仲間」のような感覚があります。だから日本がつくるAIは、aiboのような愛玩用だったり、家庭に入るかたちをとります。
 一方、西洋では神、人間、AIが縦に並んでいて、AIはサーバント(召使)だと思うんです。だからAIが労働力として社会に入りやすい。スマートスピーカーにも「電気つけて」と命令から入りますよね。

吉川 『ブレードランナー2049』(二〇一七年)でも、それは変わっていませんでしたね。二〇四九年になっても、神、人間、レプリカントと、縦に並んでいた。

三宅 そうなんです。それぞれの地域の文化によって、AIの社会的受容は全然違うと思う。だからこそ日本がつくるロボットは世界を驚かせるわけです。「えっ、なんで犬のロボットつくるの?」と。

山本 掃除しないの? とか(笑)。

三宅 そうそう。AIはサーバントであるという前提であれば、役に立たない。むしろ人間が世話をしなければならない犬型のロボットは奇異に見えるでしょう。だからaiboは衝撃なんです。
 フィクションとAIについて考えると、欧米の映画や小説では、『ターミネーター』や『メトロポリス』など、AIが人間に反乱する話が多いですよね。神、人間、AIという順序があるから、フィクションではそれを引っくり返す。一方、日本では『ドラえもん』のように、横並びの友達として描かれる。
 同じ作品でも違ったように見ている可能性があります。『スター・ウォーズ』を見た時に、西洋の人はR2―D2をサーバントだと思っていますが、日本人はドラえもんのような仲間だと捉えているので「ルークは冷たいな」と感じるでしょう。

吉川 われわれは様々なマイノリティ文学に今まで親しんできましたが、文化によってAIに対する待遇の違いがあるところから、まさにAIをめぐるポストコロニアル文学のようなものが生まれてくるのではないでしょうか。『文學界』で読みたい!

山本 読みたい!(笑) そのポストコロニアル的AI文学を、別の文化圏の人にも通じるようにしようと思ったら、文明論みたいなところから始める必要がありそうですね。どうして日本の人はAIを犬型ロボットにしちゃうのか。歴史的、文化的背景を紐解かなければならないわけですね。

吉川 たとえば『ブラック・レイン』(一九八九年)のような文化人類学的な作品ですね。マイケル・ダグラスが大阪に来て日本の警察文化を見たときに、「うわ~、なんだこれは」となったみたいに。

三宅 アシモフの「ファウンデーション」シリーズでも、人間の刑事とロボット刑事の話がありますが、あれはどう見たらいいのかな。アシモフはロボットを、サーバントでありつつも、単なる召使としては書いていない。フラットに捉えているかんじがします。
 作品を細かく見ていくと、文化の違いだけでは論じられない部分も多く、作家個人のものの見方によるところも大きいでしょうね。そもそも作家という存在は、西洋の作家であっても社会の真ん中にいるわけではないので、「社会はサーバントだと思っているけど、俺は違うぞ」と思って書いているから。

山本 例えば亡命文学者のように国を追われている立場から、平等を求めるようなAI観を持っている人もいるかもしれない。

三宅 最近は、AIに人権を認めるのか? という議論も出てきました。科学技術社会論の方からは、AIの定義そのものに、社会的バイアスがかかっているのではないか? という問題提起もあります。制作者がエリート層だから、それに都合の良いAIを定義していないかと。社会的に平等なAIの定義とは何か? など今後ますます議論が盛り上がっていくと思います。

■ゲームの中のAI

山本 ここまでのお話を踏まえて、三宅さんが研究・開発されているゲームとAIについて考えると、こんな問題が浮かび上がってくると思います。多数のユーザーが同じ世界に集まって、国籍も年齢も社会的身分も関係なく遊ぶようなMMORPG(Massively Multiplayer Online Role-Playing Game=多人数同時参加型RPG)をつくるとします。その中にAIが動かすキャラクターも登場しますね。そうした文化の違うプレイヤーたちが集まる場所で、言い換えると異なるAI観をもつ人たちに対して、どのようなAIを提供できるのでしょうか。

三宅 とても難しいですね。まず一言でゲームAIと言っても、全体を俯瞰してゲーム全体を制御し、演出する「メタAI」、キャラクターを動かす「キャラクターAI」、空間的認識をサポートする「スパーシャルAI」の三つがあり、三権分立のような形で連携しあっています。
 例えばメタAIが、ゲームユーザーに干渉するとき、どのような立ち位置を取ればいいのか。AIが様々な指令を出してきて、それに従う形だと、日本人は抵抗がないかもしれませんが、海外ユーザーは耐えられないかもしれません。ゲームって、嗜好品なので、ユーザーが我慢しないんですよ。我慢するぐらいならやめればいいと思うわけで。

山本 「やってられるか!」と思ったらいつでも放り出せる。

三宅 だから文化がよりむき出しになりやすいんです。中でも難しいのはキャラクターAIです。特に味方のキャラクター。味方は行動を共にする時間が長いので、ゲームユーザーは敵よりも味方のAIに対してセンシティブなんです。海外の人は「俺がリーダーだから従え」と、日本人は「友達であってほしい」と思っている。
 文化だけではなく、個々人の差もあると思います。例えば、自律的なキャラクターAIと一緒に敵を倒していたとしましょう。プレイヤーが敵にトドメを刺そうとしたら、隣から味方のAIが倒しちゃった。これが問題ない人もいれば、嫌な人もいる。

吉川 「いいとこ持って行きやがって」と。

三宅 ユーザーの行動を先回りしてもいいのか、アシストに徹した方がいいのか。あるいは知らず知らずのうちに、うまくアシストするのか。これまでのゲーム開発で直面してきた問題は、ゲームの中で動くAIが孕む問題を先取りしていたことがわかってきました。
 現実のAIは人工物ですが、ゲームの中のAIはプレイヤーと同じキャラクターとして存在します。これはゲームだけの特別な点です。人工物かどうかの区別がなくなり、自分も相手も同じ動物の状態で、ユーザーはAIと関わる。人間とAIが平等にいられる限定的な世界です。
 また、リアルタイムで自律型に動くゲームの中のAIは、ゲーム開発の中で加速的に進化してきた分野です。
 ゲームの研究・開発はユーザーはどう感じるんだろう? と、結局、人間のことを考え続けてきた分野だと思います。さらにAIが登場し、人間がAIをどう受容するのかも研究している。人間を研究した成果を、またAIにフィードバックしている。ゲームは人間研究とAI研究、両方に役立つ場であることがわかってきました。ですから、GAFAなどは最近、人間とAIが参加できるシミュレーションゲームをつくって、その場を利用して、AI研究を進めようとしています。

山本 そのような場所をつくれば、参加する人たちの行動や思考、欲望の痕跡が、データとして膨大に残りますからね。

■人間は偶発性に強い

吉川 ゲーム開発者はユーザーをどのように楽しませるのか、根本的なところから向き合っているのだと感じました。初期のゲーム開発者は、ディストピア文学やSFから着想を得ていたかもしれませんが、現代の文学者がゲーム開発者からアイディアを得ることもたくさんあるでしょうね。

三宅 文学とAIとの共通するところに「主体」の話があると思っています。デジタルゲームの原点には、一九六六年の「ELIZA」があります。カウンセリング用につくられたAIで、まさにコンピューターと簡単な対話をする。この技術を利用してテキストベースのRPGが制作されました。テキストで「あなたは西にいきますか?」「東に行きますか?」と聞かれ、選択する。これもコンピューターとユーザーの「対話」ですよね。
 その後、グラフィックスがつくようになり、人間に語りかける主体としてのAIが見えなくなりました。さらにキャラクターが生まれ、喋っているのはゲームシステムではなくキャラクターになっていった。すると語る主体としてのAIはますますゲームの裏に引っ込んでいきます。しかし当然ですが、プログラムとしては、語る主体としてのAIがキャラクターを喋らせているわけです。
 さらにAIがゲームに登場します。さきほど、説明したように、三権分立のような形でAIが連携していますから、ますます語る主体としてのAIがどこにあるのかわからなくなってきた。
 では、ユーザーから見て背景に引っ込んでしまった対話する主体としてのAIはどうやって賢くしたらいいのか。ひとつは、ユーザーにとってベストな物語を分岐させていく、世界そのものを変えていく方法があります。語る主体のAIが、作家のように物語をつくっていけばいいのだと。そうした、語る主体のAIを賢くしていくためには、ユーザーの理解がより必要になってきます。この語る主体としてのAIは「メタAI」と呼ばれることもあります。

山本 今のお話で連想されるのは、インターネット上の広告です。ユーザーのウェブ上の活動の痕跡を見ながら「あなたはこんなものが欲しいんでしょう」と広告を出してきます。ですが、たいていは既に買ったものだったり、既視感のあるものが多かったりして、正直うまくいっていない。有り体に言えばそそられないわけです。つまりユーザーの行動に関するデータを材料にすると、鏡写しの堂々巡りになる可能性もある。さらにゲームの場合、ユーザーは楽しみたいと思っています。楽しむためには、自分では思いつかない驚きが必要ですよね。この驚きをAIでどうつくっていけばいいのでしょうか。私はその驚きをもたらすのは人間の役割だと思っているのですが、いかがですか?

三宅 AIが得意なのは、世界を細分化して理解することです。仮に人間が問題を百分割できるのであれば、AIは百億分割できるようなイメージ。それは囲碁も将棋も強くなるでしょう。ただ囲碁や将棋の世界の外には出られませんし、ゲームの外の世界にも出られない。AIの限界と昔から言われている「フレーム問題」です。問題設定するのは人間であるので、そこから外れた世界はAIには存在しません。お掃除ロボに、掃除以外の世界はない。いきなり人助けをしたり、宅配便を受け取ることは考えもしないわけです。
 山本さんがおっしゃっていた、「驚き」をもたらすクリエイティビティを考えた時、人間に圧倒的な強味があります。なぜなら、人間が住む世界にはたくさんの偶発性があり、その中でわれわれ人間の知能は育まれてきたからです。地震や台風、事故など、予期せぬことが大量に起こります。人間はそうした無限の可能性の中で知性をつくっている。どれくらいの偶発性の中で生きられるのかは、頑健性(robustness)と呼ばれます。囲碁のような限られたルールの問題を繊細に解くのと、予期せぬ偶然の中で生き抜くのには、まったく異なる能力が求められます。繊細さでは、AIに人間は負けているのですが、偶発性の観点では圧倒的に勝っていて、AIでは手も足も出ない。文学でも、こんな展開なの? とジャンプする意外性に醍醐味がありますよね。人間がその驚きを生み出せるのは、偶発性の中で生き抜いてきた知能を持っているからで、AIにはなかなか超えられないところでしょう。

吉川 言うなれば、小島信夫性ですね。

■ネットの世界は乾ききっている

山本 私たち人間の知能は世界の偶発性によって支えられている。だとすると、三宅さんはゲームの中でそれを実現しようとしているわけですから、キャラクターのAIだけで話は済まず、キャラクターたちが生きて活動する世界そのもの、偶発性をもたらす場をつくる必要がありますね。

三宅 おっしゃる通りです。知能を深くつくろうと思ったら、世界も深くしないといけないんですよ。例えば、テトリスのようなパズルゲームの世界で知能を深くつくろうとしても、その世界ではブロックを積むことしかできません。テトリスは上手になるかもしれませんが、ぼくの目指しているような知能にはならないでしょう。
 世界の深さには様々な指標があると考えていますが、偶発性だけとってみても、デジタル上でそれをつくるのは難しい。「ネットは広大」なんて言われますが、ネットの世界なんて情報がどれだけたくさんあっても乾ききってますよ。そこには世界がなく、「世界の影=情報」があるだけですから。思考が深くならない。現実世界があるから人間は賢いわけで、三次元仮想世界のメタバース世界でもこのままでは深い知能にならないと思います。そこには世界の偶発性や、世界の無限の解像度、無限に変化する世界、というものがない。わかっていながらも、ぼくはゲーム開発者としてやはりそこに深い世界をつくりたいと思っています。

山本 偶発性があるからこそ、驚きや未知をもたらす豊かな現実の世界がある。それをプログラムという必然の塊、コンピューターに対してあらかじめ設定された一連の命令でつくろうとするのは、いささかパラドキシカルな側面がありますね。

三宅 一方で人間は、世界を単純化したい欲望もある。複雑で豊かな森の中に生きていたのに、都市をつくり自然から逃げ、コンピューターをつくり、単純な世界に入ろうとしている。文学も似たところがあると思います。例えば、ミステリーには形式があるから、「誰が犯人かな」と読み始めることができ、その謎に導かれて読み進められることが、一種の安心感にもつながったりする。
 やはり複雑性はしんどいわけです。カロリーをものすごく消費し、無駄も多く、先も見えない。現実の生活では先が見えない状況でも、ゲームの中の単純化された世界では、レベルが上がり、強い敵が倒せるようになる。達成曲線が整備されている世界に癒される。とはいえ、いま「オープンワールド」と呼ばれる、現実世界のシミュレーションに近い「なんでもやっていい」というゲームも流行っています。それはちょっと不思議な現象です。

吉川 ある種シナリオ通りの神話的な型の中で生きたいという気持ちと、それに飽き足らなくなって冒険が欲しいという気持ちの、二つのモードの間で振り子が揺れていくんでしょうね。個人においても、社会においても。

三宅 「神話的」と言うのは、すごく的を射ています。人間は生の世界を受け止めきれないから、何らかの神話をつくり、複雑な世界を直接受け止めなくていいような秩序を備えた世界をつくった。その上で神話をどんどん複雑にしていった。神話が世界を解釈可能なものにしてくれたわけです。ゲームはその過程を縮約して、わかりやすいルールで動くそれなりに複雑な世界をつくってきました。現代において、デジタルゲームは神話の代替でもあるのです。

山本 振り子のように揺れるのはまったくその通りでしょうね。それで思い出したのですが、私は月に二度、ゲームの作り方を教える講座をやっています。そこに参加している高校生が、一方ではプログラムでゲームの世界をつくり、VRのヘッドセットをつけてそっちの世界に潜っていたりする。講義はZoomで行っているのですが、あるとき、いつもなら部屋から参加している彼の背景が野原なんですね。「今日は庭先にテントを張ってそこで受講しています」と言うんです。どうしたのかと思ったら、ネットやVRの世界にずっといるとしんどくなってくるというのですね。デジタルで構築された世界は一見複雑に見えても、その複雑さには所詮限界がある。しばらくいるとパターンや構造が見えてしまう。それで外に出て草や木や空を眺めていたら、よほど複雑で見飽きないことに気がついたというわけです。

三宅 すごいね。

山本 そう、デジタルの構築物と自然とのギャップをそんなふうに感じられるほど、デジタルにもどっぷり浸かってみたからこその見識ですね。これもまた吉川くんが言う振り子なんだと思う。逆に自然の際限なく見える複雑さがしんどく感じるときもある。両方ないと人間はたぶん耐えられない。

吉川 文学にも両方ありますね。

山本 そうそう。今日はミステリー以外は読みたくないという日もあるし。

吉川 ジェイムズ・ジョイスを読みたい日もある。

■文学は現実への帰し方が上手い

山本 両方を行ったり来たりすることが人間には大切なんでしょうね。

三宅 そうですね。一日の終わりに読書をするのは、現実世界を一度シャットアウトして、単純な世界に入って自分を整え、また飽きて複雑な世界に戻るためでもありますよね。小説自体が「ゆきてかえりし物語」の構造を持っていることも多い。物語に自然に入って、現実に自然に帰ってこられるように、小説では、行きも帰りも親切に用意されている。たぶんデジタルゲームは帰し方がまだ十分に洗練されていない。文学は洗練されているから、ある程度引き込んでから、現実に戻れるようにしている。ドストエフスキーもあんなに深い世界だけど「帰り道はこちらですよ」と示してくれる。

山本 帰さないと危ないからね。

三宅 そう。『指輪物語』も冥王サウロンを倒して終わりではないところがミソです。帰り道にホビット族がケンカしたり、灰色港で旅の仲間と別れて、寂しいなと思うシーンがあるからいいわけで、フェイドアウトがうまい。ちゃんと「ゆきてかえりし物語」になっている。
 メディアとして長い年月を経ないと、帰り道がつくれないんだと思います。昔の映画を見ると、えっ、ここで終わるの? というものが多いと思いますが、今の映画は、うまくフェイドアウトしたり、徐々に現実に帰ってくるような仕掛けをちゃんとつくっていますよね。ゲームはまだ歴史が浅いから、帰す方法をちゃんと用意していない。「ラスボスを倒しました! おしまい!」のようなところがまだある。VRはさらに若いから、引き込む力がとても強いのだけれど、「帰し方」はこれからの課題。ゲームは文学から「帰し方」で学ぶことがたくさんある。

山本 それが中毒や依存症の問題を引き起こしている一因かもしれませんね。

三宅 歴史を重ねれば変わっていくと思うんです。
 文学は極めてゲームに近いところがあると思っています。どちらも体験そのもののなかで、人間を変えていく。だから、あらすじや内容を知っただけでは意味はなくて、読んだり、プレーしている体験そのものに価値があります。ただ、ゲームよりも文学は深いところにたどり着いている。ドストエフスキーの作品を読む前と後では、深いレベルで違う自分がいる。そんな効果を持つものは他にはありません。「あなたの苦しみにはこういう意味がある」と説教するのではなく、物語の体験を通して、その人自身が気づくように体験を組み立ててくれているんだろうと思います。

山本 一種のシミュレーターですよね。日常では決して経験できない、自分とは違う人間の内面の見方や考え方を体験できる。他の分野にはないほど深くシミュレーションできるのは、文字という表現手段がほどよく物事を抽象化してくれるからでしょうね。映像だと具体的すぎる。

三宅 文字だからこそ、個人が持っている固有の経験を引き出せる。映像で見ると単なる「イヤなヤツ」である登場人物も、文字では読者が自分の体験からイメージを引き出すから「最近会ったイヤなアイツ」になる。文学は読む人の記憶の素材からイメージを構築させるから、その人固有の物語イメージとなって、読む人を物語に深く引き込む。そして物語を通して、イヤなアイツにも実は違った面があることに気づいたり、生い立ちに共感したりする。文学は自分の経験を引き出す、コマンドツールみたいなもので、読者の奥底の記憶たちが引っぱりだされて化学反応がおこる。化学反応を起こしているのは、自分の内面のいろんな記憶や経験であって、物語そのものではない。その調合の仕方を物語が与えているんだろうと思います。そして物語はそのようなヒートアップからクールダウンに転じる、つまり物語の中に物語からの帰り道が用意されているのも魅力的なところですね。
 


このインタビューは2月号の連続インタビュー(川添愛「AIは人間の偏見も学ぶ」、大澤真幸「人間とAIの関係は神学的に規定されている」)、ブックガイド(「AIをさらに知るための29冊」山本貴光&吉川浩満)、6月号の座談会「私たちはAIを信頼できるか」(大澤真幸、川添愛、三宅陽一郎、山本貴光、吉川浩満)と共に、『AIと人類 2022』として書籍化(8月下旬刊行)予定です。


『文學界2月号』
特集「AIと文学の未来」

〈創作〉円城塔「機械仏教史縁起」(新連載)
伴名練「葬られた墓標」

「AIと文学の未来」をめぐる連続インタビュー 聞き手=山本貴光&吉川浩満
三宅陽一郎「AI研究は世界と知能を再構築する」
川添愛「AIは人間の偏見も学ぶ」
大澤真幸「人間とAIの関係は神学的に規定されている」

〈ブックガイド〉「AIをさらに知るための29冊」山本貴光&吉川浩満

〈コラム〉橘玲「あなただけの〈U〉」
若林恵「AIと自販機とメディアの仕事」
池澤春菜「いつかその手を取るために」



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