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【書評・倉本さおり】三木三奈『アイスネルワイゼン』――明滅する現実の死角

 どんなに十全に描かれているように見えても、小説を通じて提示される視界には限りがある。達者な書き手ほど読者にその不自由を感じさせずに作中の世界を同期させる仕事をやってのけているわけだが、そこに意図的に遮蔽物が持ちこまれている場合はまた別の問題がたちあがる。そうやって覆いがかけられることではじめて輪郭を得るものを通じ、読者自身がおのれの視界の欠けや偏りを検めていく必要があるからだ。

 本書の表題は作中でも触れられているとおり、サラサーテの名曲「ツィゴイネルワイゼン」(「ロマの旋律」の意)をもじったものだ。劇的であると同時に哀感を漂わせる技巧的なメロディ――その印象は、まさに三木三奈がものする小説とぴったり重なっている。

 収められている二つの中篇のうち、表題作「アイスネルワイゼン」の主人公・琴音は、とある事情から一年前に会社を辞め、いまはフリーランスで子供相手にピアノ講師を続けながら食いつないでいる三十二歳の女性。彼女が過ごすことになるクリスマスの二日間を中心に狂騒劇の幕があく。

 物語は三人称で描かれていくが、視界にはつねに不穏なくらがりがある。地の文は琴音のふるまいを逐一捉えて可視化させる一方、心中にはけっして踏み込まずあくまで外側にとどまっている。だが彼女をめぐる会話をそのまま縫いとめることで、琴音がどのような状況にあるのか、周囲とどのような関係を結んでいる/結ばされているのか、このテクストはじつに巧妙に浮かびあがらせていくのだ。

 序盤、琴音がマニキュアを塗りながら、高校の同級生である小林とハンズフリーで通話する場面からしてスリリングだ。ふと〈「ピアニストより、ネイリストになりたかった」〉とこぼした琴音に対し、小林は即座に〈「ピアニストでもないじゃん」〉と容赦のないツッコミを浴びせる。小林との会話は、だらしなく間延びした時間を共有できる気安さがある半面、自尊心をじわじわと膿ませるような細かな棘がちりばめられている。事実、こっそりマージンを中抜きしている(!)小林に体よく押しつけられたイブの仕事は散々の内容で、琴音は年輩の歌手から運転手代わりに使われた挙句ヒステリックに怒鳴り散らされ、肝心の演奏もどこが悪いのかわからないまま一方的に貶される。聞かされていた話とずいぶん違う状況に琴音も当然憤るが、その怒りは適切なかたちで届けられないまま小林によって強引に「ウケる話」としてまとめられてしまう。

 このあたりのやりとりの絶妙なさじ加減は三木の真骨頂だろう。例えば三木にとって二作目の中篇「実る春」(文學界二〇二一年四月号)に、へらへらと笑いながら女の肩を上からぐっ、ぐっ、と押してその場をやりすごそうとする放蕩男が登場するが、鷹揚なふりをして相手の対等性を最初から台無しにするような、人間のいやらしい部分を濃やかに描かせたら三木の右に出るものはいない。

 とはいえ琴音もけっして無謬ではなく、むしろ社会的な常識や倫理的な観点がところどころ抜け落ちている印象だ。加えて多くの登場人物は、たとえ固有名詞が作中で明かされていたとしても「子供」「母親」「息子」「夫」などと呼びならわされ、琴音がどんなふうに世界を眺めているのか、どのように他者を意味づけ/価値づけしているかうかがわせる仕掛けになっている。いくつかの出来事や騒動を経て浮き彫りになるのは、うわべばかりを取り繕い、他者のことも自分のことも大切にするやり方がわからないまま年齢を重ねてしまったひとりの女性の姿だ。

 琴音のことを折につけ気遣う中学時代の友人・優に「見えていない」部分があることが読者に示される場面は示唆的だろう。彼女の幼い子供(ここでも太子という立派な名前が明かされているにもかかわらず、地の文はただ「子供」と呼びつづける)が繰り返すけなげなふるまいは、否が応でも優の視覚障害を意識させ、涙を誘う家族ドラマを盛り上げるポーズをとる。だが、そのたびにテクスト上であやうげに明滅するのは、多分に優のなかで美化されてきた琴音像をはじめ、そもそも優自身が形成してきた視界の歪みや偏りであり、現実それ自体があらかじめ含みこんでいる死角の存在なのだ。

 だからこそ、文學界新人賞を受賞した三木のデビュー作にして、選考会で解釈をめぐり議論が紛糾した「アキちゃん」における意図的な語り落としについて、いま一度考えてみなければならない。

 小学生の頃、周囲から〈わたし〉の「親友」とみなされていたアキちゃん。信じられないくらい横暴で陰湿で底意地のわるい、自分にとっては悪霊のようなアキちゃん。それでも――アキちゃんの「好きな人」が自分だったら、という夢想を繰り返していた〈わたし〉。

 表題作と異なり、徹底した一人称で綴られていく本作は、冒頭から〈わたし〉の憎しみが激しく迸りながらとぐろを巻いている。ゆえにその語りからつむぎだされる視界はあらかじめ大きく偏り、当然のように欠けを含む。その〈わたし〉の個人的な偏りや欠けで、アキちゃんのクィアネスを――後年になってかつてのクラスメイトから「ねぇ……、わかるでしょ?」と仄めかされるだけで輪の向こうにのけられてしまうようなそれを――いったん覆ってみせることがこのテクストの本懐だと考えてみるのはどうだろうか。

〈それはただ何かにふれていたいというだけの手だった。それだけの、つつましい、さみしいような手だった〉。ふたりきりの雑貨屋のなか、陳列された商品を撫でながらすべるように歩くアキちゃんの姿を捉えた〈わたし〉のこの描写は本作のハイライトだろう。本作の語りにおいて、〈わたし〉はどうにかして社会から切り離された「点」の立場で――つまりは自分本位な感情を敢えて素朴に吐き出してみせつづけることで、かつてそこにいた〈アキちゃん〉という存在に触れようと試みたのではないか。

 表題作のラストで琴音を打ちのめした空っぽのキャリーケースの「重さ」は可視化されないものたちの象徴だ。三木三奈のテクストは、それらに触れるためにつらなっていく。


(初出 「文學界」2024年4月号

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