“手触りの経験”を各々が味わうしかない時代に、迫られる“生き方改革”。

テレワークが始まって早3カ月が経った。

いろんな”無駄”がなくなった。

・全てオンライン会議になったことで遅刻が減った(今まで会議の開始は5分遅れがデフォだった)。
・隣に先輩や後輩がいないことで他愛もない無駄話が減った(その分、独り言が増えた)。
・通勤がなくなったことで満員電車にイライラすることがなくなった(本を読む場所は電車から浴槽に変わった)。
・クライアントのオフィスへの移動がなくなったことで、プロジェクトメンバー内の雑談が減った。
・突然やってくる”誰かからの”お土産や差し入れがなくなった。
・仕事終わりに朝まで飲んで二日酔いになることがなくなった。
・化粧をしなくなってファンデーションの減りが遅くなった。
・プライベートで会うほどの関係ではないけれど会えると嬉しい人に完全に会わなくなった。

今ざっと思いつくだけでもこんな感じ。

これらの変化を、わたしは「仕事上においては」基本的に全て「良いこと」だと思っていた。

あらゆる”無駄”が排除されていった結果、”効率”はぐんぐん上がるはず。効率が上がれば、その分、多くの仕事に関わることができ、空いた時間は仕事以外の「したいこと」の時間に充てることができる。

だからテレワークが始まってからこの3カ月間、わたしの目下の関心事は何を差し置いても「効率化」だった。

もちろんすべての物事には裏面があるから、無駄話が減ること、仕事を一緒にしない人にしか会えなくなること、は寂しいなぁと感じていたけれど、そんな「寂しさ」よりも、この変化を受け入れて「順応」していくこと。その方が遙かに重要だと思っていた。

でも、そんな置き去りにしていた「何となく」の寂しさに、このタイミングで真正面から向き合うことができて、本当によかった。

そんな気づきをくれたのは、ごみちゃんが空間設計・制作を手がけていた、山川咲さん”Close Contact”という名前の展覧会。アヤノさん、誘ってくれて本当にありがとう。。

なんかもう、すごかった。

本当によい体験をしてしまったときって、冗談じゃなく言葉を失う。

これでよかったのかわからないけれど、山川咲さんという方の人生を「知る」というよりも、終始、自分自身の人生(過去/今/未来)と対面せざるを得ない空間だった。

電波で簡単につながれた気になっていたけれど、わたしが今感じたかったのは、夏場にひざに食い込む実家の竹の敷物の感覚とか、土曜の夕方に早々とお父さんの前に準備されるキンキンビールと枝豆のにおいとか、ちびまる子ちゃんを見ながらお兄ちゃんと交代でお好み焼きの粉を混ぜる楽しさとか、そういう「手触り感」のあるものだった。

それは、深海のような「暗闇」の中でこそ、記憶が向こうから出てきてくれて、思い出すことができたものだった。記憶は、本当に断片的なもので、いつ、なにが、起爆装置になるかわからない。

あかるく、たのしく、おもしろく、がアヤココーポレーションの三大理念の中で(※そのような会社は実在しません)、なるべく明るい方、明るい方を向けるようにと生きてきた。

先日見た映画『ストーリー・オブ・マイライフわたしの若草物語』の冒頭に出てくるテロップ「悩みが多いから、私は楽しい物語を書く」には激しく同意で、真面目に生きていても人生には苦悩がつきものだから、全部オチをつけてネタにする気概で生きてきたし、これからもそうするつもり。

けれど、咲さんが「はじめに」で綴っていた「闇のない人間はいないだろう」、それはきっと真実で、ずっとそんな言葉を待っていた。

「闇」を直視することで、本当に大事なものが浮かび上がってくる。そう、体感することができた。

仕事において、わたしにできることは、「できる?」と聞かれたら「もちろんです、やらせてください!」と前向きに取り組むことだと思ってきた。

一緒に仕事をしている人たちが好きだから。この人たちの役に、社会の役に立ちたい。そしてせっかくなら、楽しくやりたい。

そうでなければ、自分を許せなかった。愛せなかった。

けれどいつもキャパを超え続けると、いつのまにか自分は楽しくなくなっていた。その繰り返しだった。

働く場所という制限がなくなって、自由を手にした気になっていたけれど、自由に伴う「自己責任」の環境下で、自分のご機嫌をコントロールできないほどに、わたしは未熟だった。深夜に明日のおかずを作ったりしても、疲れて笑えない、本を読んでも集中できない、そんな日にぽつぽつ出会してしまう。

元々は、空いた余白に、誰かとのご飯を楽しんだり、趣味に没頭したり、そういうことは素晴らしい、そう思っていたから”効率化”を求めていたのだ。

毎日、本が読みたいし英語も勉強したいしキッチンに立ちたい。
そういうわがままを置き去りにして、不機嫌な時間が流れていったところで、時間は流れたまんま、戻ってこない。

大げさなようだけれど、わたしは今、「生き方改革」を迫られている。
もしかしたら多くの人が、今、そうなのかもしれない。

「前向きにがんばってくれる」とは違う専門的な価値を今より数倍レベルで高めないといけないし、自分の時間割を強い意志で守りたい。

いつだって最優先したいのは、わたしが機嫌よくいることだから。じゃないと、大事な人を大事にできない。

つい明るい場所ばかりを探して選んでしまうけれど、そっと暗がりの方に手を引いて連れて行ってくれて、たき火を炊くように明りを灯して、遙か遠い記憶や心の海底2万マイルに沈ませている感情にタッチさせてくれる。そんなことを成し遂げてしまう人たちはいったい何者なんだろう。

「天才」といってしまえばこちらは気が楽なんですけれども、苦労を知らない人があんなものを作れるわけがない。

あ、でもこんな思考法を編み出してしまうくらいだから本物の天才かもしれない。

暗闇を直視する勇気を持って、「伝える」のではなく「伝わる」ために100本ノックを続けてきた人たちだからこそ、人間の心の核心に迫る「アート」とやらができてしまうんだなぁと、まったく感動しきってしまったよ。

明日からの糧にさせてください。

ごみちゃん、本当におつかれさまでした!



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