清少納言とマブダチになりたい。

さいきん、寝る前の1時間前にはスマホを遠くにポイッとやって、エッセイやら雑誌やら漫画やら、ライトな読み物を読む時間に充てるようにした。

そしたら前よりもいい睡眠ができている気がする。(小説とかビジネス本だと脳が興奮しちゃうので、わたしはだめだった…)

”寝る前の本”として特によかったのは、『枕草子』。寝る前に清少納言ちゃんの感性に触れて千年前の暮らしに想いを馳せると、ふわふわあったかい心地がしてきて、そのままドリーミーな世界にダイブできる。

『枕草子』といえば「春は、あけぼの~」ではじまる有名なあれである。けれど春夏秋冬の移ろいを謳ったこの名文は”第一段”に過ぎず、他にも名作がゴロゴロある。

※以下、めちゃくちゃライトな超現代語訳でどこぞやの古典の先生からお叱りを受けるかもしれません。そのときは謝ります。

💄💅👠

まずは第二十六段の「心ときめきするもの」。

胸がどきどきするもの。雀の子どもを飼う。赤ちゃんを遊ばせている所の前を通る。リッチなお香を炊いて、一人でゴロゴロする。中国からの鏡が少し曇ったのを覗き込む。イケメンでハイスペックそうな男が牛車を止めて、付き添いの者に何かを尋ねさせているとき。髪を洗って、お化粧をして、お香を仕込んでおいた着物を着るとき。別に見る人がいなくたって、心ははずんで気分が上がる。待つ男がいる夜、胸がどきどきして、雨の音や風が吹いてガタガタするのも、はっと胸が騒ぐ。

そうなんよ、別に見る人がいなくたって、おしゃれをすれば心ははずんで気分が上がるのよ。女子だねぇ。

👫💓🏠

今度はうってかわって、”男の朝の別れ際”の是非を謳ったもの。

男というものは、やっぱり明け方の別れ際の姿にこそ、そのセンスと真価が問われるというもの。しょうがないなぁとしぶしぶと、いかにも起きたくなさそうなところを、女に無理やり起こされて、「もうすっかり明るくなっちゃったね…みっともないわ…///」とか言われて、ちょっとため息なんかをついているのは、まじでもっと一緒にいたいんだろうなと思っちゃう。袴も座ったままで履こうともしないで、女にくっついて、昨日の夜の甘い言葉の続きを女の耳にささやいて、そのうちさりげなく帯をしめる姿。格子を上げて、扉のところまで女を連れていき、今日の仕事中だって君に会いたくてそわそわしちゃうだろうな…だなんてつぶやきながらそっと出ていく。そんな別れ方なら、女も自然と彼を見送って、いつまでもその後姿を名残惜しげに見つめるだろう。

ここまでの理想を書き連ねたのが前半で、後半は、「さ〜て帰るか~!」とか言ってバタバタ着替えて慌ただしく出ていくのが結局現実よね…的なことが書かれている。当時は、男が女の家に通うのが当たり前だったらしい。

やっぱりどれだけ「別れの名残惜しさ」を感じられるか、、なんですかね。笑 だいぶロマンチストマンな気がするけど。よいです。

🌸🌿🍁❄️

これはめちゃくちゃ短いけど、いかにも清少納言らしくてだいすき。

ただひたすら過ぎていってしまうもの。帆を上げた舟。人の年齢。春、夏、秋、冬。

はああああ・・・・である。(一人読みながらほんとに「はああああ」って大きなため息ついてたと思う)。

刻々と過ぎてゆく「時間」というものを、「時間」でもなく、はたまた「季節」でもなく、「春、夏、秋、冬」と並べるところに、彼女のセンスを感じる。

「丁寧な暮らし」という言葉は、がんばりウーマンにそれを強いるようでどうしても好きになりきれない。けれど忙しない日々の中で、自分が生きる世界のごく身の回りの変化に気づくことは、お金のあるなし、時間のあるなしにかかわらず、とっても豊かで楽しいことだ、彼女の文章は自然とそんな気持ちにさせてくれる。

👘🏯👘

清少納言は、平安時代に、中宮(天皇の后の最高位)であった定子さんに、20代後半~30代半ばにかけて仕えていた。『枕草子』は、清少納言が宮仕えをしていた約7年間のできごとや感性をつづったエッセイである。

つまりこのエッセイを書いていた頃の清少納言ちゃんは、28才であるわたしと同世代ということになる。現代だったら、Sweetとかを読んでいるであろう世代?(けれど彼女には、&premiumとかCREAなどを読んでいてほしい。)

こんなにも季節の移ろいを豊かな五感をびんびんに使って趣たっぷりに表現できて、個人的”ではない”恋バナを延々とできそうな清少納言氏・・・。友達になったら間違いなく楽しいだろう。

だがしかし悲しき哉、わたしが松坂桃李のことを知っているようで全然知らなかったように、実際の彼女のことは知り得ない。

けれど、千年前を生きたひとりの女性も、アロマを焚いてゴロゴロするのが至福のひとときだった、誰に見せるわけでもなくオシャレをすると気分があがった、男の理想の帰り際を妄想するのは楽しかった、春夏秋冬の移ろいに切なさ、儚さを感じていた……

そう思うだけで、すごく心がじんわりしてくる。千年前、生活様式はまるで違えど、同じく四季は存在した日本に、たしかに彼女は生きていた。

詳しいわけではないけれど、古文だとか西洋画だとか、クラシックなものに惹かれるのは、いつの時代も変わらない普遍的な人間の姿を見つけたいからなのかもしれない。

日本も西欧も関係ない、平安も令和も関係ない、わたしも綿々と流れる大きなうねりの中にいる一人だと感じられるから。

💓👭💓

清少納言と友達になりたいと思っているけれど、毎晩寝る前に彼女のエッセイを読む時間は、もはや親友と枕を並べて、答えのない問いをああだこうだ語り合うそれとほぼ同じようなもので、一方的にはもうマブダチだと思っている。

エッセイを読ませてもらうって、そういうことなのかもしれない。


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みなさんよい週末を~~~!



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