心からハハハと笑うために。
もう、顔はほぼ泣いていた。
どうしてメンヘラ全開の日に六本木まで行って“グルイン”とやらに参加しないといけないのか。
こんなに生き生きしていない目で、「はじめまして〜」なんてさいあくだ。
それでもどうにか無理やり目を細くして口角上げて、「そうですね、マラソン大会は冬だけでなく夏にもやってほしいです」なんて言ってしまった。マラソンは本当に好きだし嘘ではないけれど。(何のグルインかはご想像にお任せします…)
六本木に向かう大江戸線にて、私の顔はメランコリー一色だったに違いない。
「今夜もnoteを書こう」そのことが頭にあると、いかに自分が毎日をぼぉっと生きていたかに気づく。どーぞチコちゃん叱ってくれたまえ、罵ってくれたまえ、という具合に。
いざ書こうと思うと、思考の浅さに気付く。
「ありのまま」なんて怖くないと思っていたのに、さらけ出すことの難しさを知る。
いざ自分が書いたものを読み返すと、現時点のレベルを痛感してすぐさまシャッとブラウザを閉じたくなる。
SNSでシェアなんてできたもんじゃない。
「バカは隠せないよなぁ」とつくづく思う。
だって書こうだなんて思わなければ、あの人のギャグセンツボだな~~あの言葉はありがたいな~お昼は絶対唐揚げ食べたいな~あの人には次いつ会えるかな~~ふっふーんと平和ボケもいいところなおめでたいブレインの持ち主なはずなのだ。
そして思う。
それで何が悪いのかと。
いつしんでもおかしくないなら、なるべく好きな人たちと、おいしいものを食べて笑っていたい。
なるべく幸せな「日常」を一日でも長く続けたい。
私はウルフルズの『笑えれば』を聴いて育ったサラリーマンなのだ。
けれど今。
私は平和ボケじゃいと開き直る一方で、猛烈に「半年後、同じ自分に会いたくない」という焦燥を感じている。だからヘタでも、バカでも、腰を小さく丸めながら種をまいていないと気が気でないのだ。
でないと真に充足感を得てハハハと笑うことはできない。
朝起きてから夜眠りに就くまで、目に入ってくる人・物事に想像力を働かせて言葉にすることは、文章力のみならず今の仕事にもつながると信じてます。
早く走るための一番の近道が「走る」ことだったように。
こういうところ、吹奏楽部出身は体育会メンタルだよなぁと思う。
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