サキュバスと聖職者-7


日が暮れて空の色が青から橙、赤、夜の群青へとグラデーションしていく。
私は部屋の窓から空を眺めて、ジリジリと身を焦がすような思いでいる。
せっかくの綺麗な夕焼け空も楽しめる心の余裕がなかった。

早く。早く夜が来て。

街を散策して司祭様と教会に戻ったとき、ハジノ村から早馬を……早カパルという方が実状には則しているけれど……飛ばしてきた男の人が、司祭様に村の窮状を伝えたのはもう数時間も前。
司祭様は手早く身支度して慌ただしくハジノ村へと向かってしまった。挨拶もしなかった。
ただの教会の掃除婦でしかない昼間の私が、司祭様に詳しい話をせがんだりましてや同行するわけにもいかないから仕方ないのだけれど。

サーニャお婆さんには夕食は外で食べることと帰りは遅くなることを伝えておいた。腰の悪いお婆さんが私の部屋まで来ることはないと思うけれど、不審に思われないように気をつけなくてはいけない。
とにかく夜が来るまでの残りがじれったかった。

ようやく日が沈みきり空が夜の帳に覆われる。
私の体が内側からドクンと脈打ち、熱を帯びて燃えるよう。
地味な茶色の髪は鮮やかな薄桃色のウェーブがかったふわふわのそれへと変わり、丸かった耳は三角に尖る。牙が伸びて爪も伸び、背中には黒い翼、腰の辺りには自由に動く尻尾が生える。
私は無事に悪魔の姿へと転身した。

「は、ぁ……、ンっ、……この瞬間、まだ慣れないわね。変な気持ちになっちゃう」

ふるふると頭を振って尻尾をゆらゆら動かす。おなかのなかにキュウと熱が溜まる感覚に理性よりも本能が刺激されて身も心も逸るのを止めるのは難しかった。

窓を開いて外を見る。
ちらほらと家路を辿るひとの姿はあるけれど、曇った夜の空の方を気にするひとはいなかった。

バサッ!
翼を羽ばたき、窓から空へ。
私は一躍飛び立った。


ーーー


「って、ハジノ村ってどこ〜〜!?」

街道の上を飛んでいけばそのうち村に、途中で司祭様が乗る馬車にも追いつくだろう。
そう気楽に考えていた私は自分の考えの甘さに打ちのめされていた。

街道は街から遠くなるほどに道という体裁から離れていき、平原なのか道なのかが空の上からはにわかにはわかりづらくなっていた。
たまに林が茂ってその度に更に道を見失うこと何度か。
目印らしい目印もない右も左もわからない道を空から辿るということの難しさを実感した。

「ど、どうしよ……こうしてる間にも司祭様ってばジューマとかいうのにひとりで立ち向かってるんじゃ?……ヤダヤダ、アタシが行くまで無事でいて〜!!」

司祭様のことを低く見積りすぎかもしれない。けれどあの鈍臭い司祭様が、自然豊かな田舎の村なんて。歩いてるだけでその辺の木の根っこに躓いて勝手に転んでいる、そんな印象がどうにも拭えなかった。

「あ!でも待って!?アタシは夢魔。司祭様はアタシの契約者。いわば運命の赤い糸で繋がってるんじゃない!?そうよ。きっとそう。精神を集中して、司祭様の鼓動を、魂を感じ取る!」

自分を奮い立たせるために敢えて声に出して言ってみる。
不思議なもので、そうするとなんだかいけそうな気がするのだ。
私は目を閉じて手を組み、一心に司祭様のことを思った。


ーーー

暗い森。
獰猛な獣の息遣い。
ギラギラと凶悪に光る血のように赤い瞳、鋭く並ぶギザギザの歯。
ゴワゴワと硬そうな毛、大きな体。

対峙するひとりの黒い人影。
片膝をつき、息は荒く、その足元にはポタポタと血の色の水溜りができている。

大きな獣、その周りに一回り小さな獣たちが無数。
囲まれている。
絶体絶命の状況。かざされる手、迸る眩い光。


ーーー

「っ!」

私は目を見開いた。
脳裏に浮かび上がったあの光景、あれはきっと司祭様の今の状況。
どういう理屈かはわからないけれど、わかった。
私は翼を打ち、風を切る弾丸のように飛んでいく。

夜の闇を引き裂いてビュンビュンと風を切り飛んでいくと、目の前に鬱蒼と生い茂る深い森が広がっていた。
ぞくりとするようなおぞましい、障気のような黒いモヤが一角に滞る。
ピリピリと肌を刺し、うぶ毛を逆撫でするような。生臭くすえた臭いが不快だった。
あのわだかまる黒いモヤの中心に、私の司祭様が居る。
根拠もないのに確信を得て、私はそのモヤのなかに突っ込んだ。ためらっている暇なんてなかった。

ヴォッ……!と分厚い膜を突き破るような感覚がした。一瞬息が詰まる。モヤの中に入ると、中はズンと重い空気に満ちて、私の体も重くなったよう。
私の悪魔としての格、力。いまは相手の方が上なのだろう、と本能が悟る。
けれど。
尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。

「……司祭様!」

大きな獣が司祭様に襲い掛かっていく。
鋭い爪と牙が司祭様を八つ裂きにしてその体を食い破る。思わずそんな未来を幻視して。

「ダメっっ!!」

手のひらから、練った魔力の塊を撃ち出した。
それは大きな獣の横っ腹に当たってボンっと弾ける。獣の体がわずかに揺れてたたらを踏んだ。

「お、おまえは……なぜここに!?」

邪魔をした私に獣の意識が向いた。
司祭様は突然現れた私に驚いている。膝をついたその足元には血溜まり。

「約束したでしょ!貴方の代わりに、アタシが戦うって……もう忘れたの!?また叩かれたい!?」
「ぅぐ、ぐ、っ……だ、だが」
「しのごの言ってるヒマなんか、ない!」

大きな獣がガァァアッと咆哮する。
ビリビリと空気を震わせ、気力を挫かせるような魔力のこもったその声。私の体からふっと力が抜けていく。
あっ、と思う間もなく体が落ちていった。
ドサ、と地に落ちた私に、ガァァァアッ!とまた鋭い咆哮が飛ぶ。それを号令にしたかのように周りに侍っていた一回り小さい獣たちが一斉に私に群がってきた。

「っあ、っ!……ぃゃ、や、やだっ、こ、来ないで!」

バチン!と尻尾を鞭のようにしならせて抵抗する。けれど一匹払っても次から次へと飛び掛かられてなす術もない。
司祭様を助けに来たはずなのに!
これじゃあ二人ともやられちゃう。
せめて、それならせめて、司祭様だけでも……。
そう思った時。

「天の炎は大地を焦がす。世の邪を焼き払い真の正しきを示す。光よ!」

目を焼くような眩い光が弾けた。
黒いモヤを払い、獣たちを竦ませ払う光。
それはほんの一瞬のことだったのかもしれない。
ふいに私の体は浮き上がり、不規則で不安定な揺れの中にあった。

「し、司祭様……?ど、どうして」

司祭様の腕の中に抱えられて。
森の中を走るその胸に抱かれながら、私はポーッと夢心地になる。そんな場合じゃないのに。

「い、いま、はなし、かけ、っ、な!」

司祭様の声は息も絶え絶えに途切れて苦しそうだった。
怪我もしているはずだし、そもそも鈍臭いのだ。森の中を、普通の人間の女の子よりずっと軽いとはいえ私を抱えて走るのは確かに大変なことだろう。
それでも、司祭様は私をおろさず走り続け、やっとのことで森の中の小屋に辿り着いた。
そこで漸く一息ついて私を下ろすと、ドッと床に倒れ込む。

「司祭様!?……やだ、うそ、大丈夫!?」

青白い顔は血の気が引いてますます青白く、眉間のシワはいつも以上に深くなっていた。
取りすがるようにその体に駆け寄って肩を揺する。
うっすらと目を開く司祭様と目を合わせた。

「だ、大丈夫、だ。だから、……っぐ、!っ、……あ、あの、魔性を」

司祭様の脇腹から、ダラダラと血が流れていた。
嗚呼、ダメ!これ以上流れたらきっと死んでしまう。
どうしたら?どうすればいいの?悪魔は癒しの魔法なんて使えるの?司祭様の体温が冷えていく。
いやだいやだ!

「やだっ……死んじゃやだ、司祭様!」

私は無我夢中で、半ば意識を失った司祭様に口付けをする。
重ね合わせた唇から、私の生気を、魔力を、流し込む。治癒の力の使い方は知らない。けれど本能が叫ぶ。

べりっと血に濡れて張り付いた司祭様の上着を引き剥がし、脇腹の傷にも口付けをした。
ペロペロと野生動物がそうするように傷口を舐めながら、ここにも直接魔力を注ぎ込む。
どれほどそうしたのか。やがて血が止まり傷口は塞がれていった。
司祭様の呼吸も少しずつ整って穏やかなものになっていく。
司祭様の顔を覗き込む。

「司祭様……司祭様……ねぇ、起きて。司祭様。……っ、ヘルムート!」
「っう、……くぅ、……は、……な、なんて、顔だ。……悪魔のくせに、泣きそうでは、ないか」

司祭様が呆れたような、困ったような、けれどいつもと違う少しだけ優しい声で言う。
私は心からホッとして、司祭様の胸に縋るように抱きついた。

「良かった!し、死んじゃうかと、思ったぁ」
「……、未熟な、悪魔め。契約者が死ねば、その魂はおまえのもの。いまより、更に、強くなれるというのに……」
「バカなの!?貴方が死んで得る力なんか意味ないわよ!?」

私の勢いに鼻白んだように司祭様は眉を寄せた。
う、っと呻いているのは、まだ傷が痛むせいかもしれない。

「……は、しかし、あの獣魔は強い……おまえでも、歯が立たん、……だが、このままには、しておけぬ」
「ねぇ!その、ジューマってなんなの。悪魔とは違うの?」
「……獣魔を知らぬのか。……生まれたばかりの悪魔とは、無知なことだ」

はぁ、とあからさまに溜息を吐かれる。なんなの!昼間の私には優しく丁寧だったのに。
溜息を吐きつつも司祭様はジューマについて説明をしてくれた。

稀に動物の死骸に宿る魔性の精。それによって新しく命を得た獣。それをジューマ、獣魔というらしい。
獣魔は家畜や人を襲い、作物を荒らす。その辺りは普通の野生動物と大差はない。けれど、獣魔の吐き出す息は障気となって大気を穢す。排泄物は大地を穢す。獣魔の通った後は木々も腐り枯れてしまうのだという。その上獣魔は仲間を増やす。
早く対策しなければそれはどんどん広がり、放っておけば不毛の地になって作物も育たず人々が困窮する。
だからすぐに倒さなくてはならないのだと。
司祭様は言うけれど。

「歯が立たん、って、じゃあどうするの?」
「……」

獣魔は強かった。今のままでは返り討ちにあう。司祭様は苦虫を万匹も噛み潰したような渋面だった。

「……や、やむを得ない。……悪魔よ、……わ、わ、……私の、せ、ぅうっ!」

頑張っている。そんな場合ではないのだけれど、煮え切らず口ごもりながらも言葉を絞り出す司祭様についキュンとした。
私は彼のこけた頬を両手で挟み、目を合わせる。

「司祭様、貴方の精をちょうだい。代わりにアタシが、ジューマを倒してあげる」

薄い唇に、口付けする。
さっきも散々したけれど、あれは私の魔力を司祭様に送り込むためのものだった。
今度は逆。司祭様の精を私が貰う。

「んっ……ふ、ぅあ、んんぅ」

舌を絡め、くちゅくちゅと唾液の交わる深い口付け。息苦しいのか司祭様の吐息が熱く荒くなる。
司祭様の体に熱が巡り、一点に集中していくのがわかった。

「は、ぁ。……司祭様、ヘルムート、今日は優しくしてあげる。怪我をしてるから」
「っぁ、……、す、好きに、しろっ」
「ふふ、……可愛い司祭様」

私は彼の言う通り、好きにすることにした。

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