サキュバスと聖職者-2


バサ、と翼をはばたかせ初めて飛ぶ空は最高に楽しいものだった。

司祭の肩を踏み付けて逃げることに成功はしたものの、相変わらず自分のこともここのこともわからないままの私。
あてもなく羽ばたいているうちにすっかり飛ぶ楽しさの虜になってしまった。ただ考えてもわからないことを考えるのに飽きただけなのかもしれないけれど。

空から見下ろす街並みは、なんにも覚えてない私でも、なんだか物語の街並みのようだわ、と思うものだった。
赤っぽいレンガ造りの家々、石畳の道、ランプのようなものが吊り下げられた街灯。街の灯りのつきかたはまばらで、夜の街は暗い。外を歩く人影も殆ど見当たらなかった。

外れの方まで来ると、街そのものをレンガの壁がぐるりと囲っているのもわかった。
街の中と外を行き来するには東西南北の門を利用するのだろう。それも真夜中の今は固く閉じられていて、眠たげな衛兵が見張りのように立っている。
北の門の向こうには広くて暗くて鬱蒼とした森が広がっているのが見える。
尻尾がピンと立って、ゾワゾワと怖気の走るような薄気味の悪さがあった。

「どこに行こう……アタシ、これからどうしたらいいのかしら?」

司祭にいきなり殺されそうになって、なんとか逆襲に転じたときはびっくりするほど気持ち良くてドキドキした。でも思い返せば怖かったし理不尽だと思う。

「アタシ、前のアタシはなんだったの?ここも、今のアタシも、アタシの知ってるとこじゃないって……そんなことしかわかんない」

生まれたばかりの悪魔。
司祭はそう言っていた。
空を飛ぶ翼、自由にゆらゆら動く尻尾。どこからどう見ても普通の人間じゃない。
途端に心細い気持ちになって、高い塔のてっぺんに座って膝を抱えた。

「あの司祭様……、冷静にお話しできたら、アタシのことも、ここのことも、少しはわかるのかしら。……でも、ムリよね、冷静になんて」

次、会ったら今度こそビリビリのバチバチにされちゃうんじゃないかしら。
でも、痛みに耐えて苦しげな顔も、声も、悔しげに歪んだ顔も思い出すだけでゾクゾクしちゃう。
次会ったらアタシも、今日したのよりもっとすごいことしちゃう気がする。

「あ〜ん、ダメ!もういい、なるようになぁれ!」

考えて悩むことにやっぱり飽きてしまった。
トンと飛び立ち、ふわふわと気ままに夜の飛行散歩を楽しむ方がずっといい。
そうして楽しく飛び回っていたらそろそろ夜明け間近。
朝焼けの空の色が見える。
突然、ふっと全身から力が抜けていった。

「え……」

翼は動かなくなり、体は重く、引力に引っ張られるように何もできずに地面に落ちていく。

「あ、え……うそ……きゃあ!?」

バサバサッバキン!
木の葉と枝に引っかかり、そのあと地面に激突して、意識はすっと遠退いていった。

ーーー

体がズキズキと痛む。
自分では動くことができない。
何か温かくてぬるっとした分厚いモノが、ベロっと顔を舐める感触で目を覚ました。

「ぁ、……」
「おお、よかった、まだ生きとるな!?安心せい、いま街に司祭様を呼びに行っとるけぇ。こりゃ、いつまでもお嬢さんの顔をベロベロすんでねぇゴンゾ」

しわくちゃの赤ら顔のお爺さん、と、モフモフの毛並みの馬みたいな鹿みたいなアルパカみたいな生き物。立派な角が二本ある。顔を舐めて起こしてくれたのはこの生き物らしい。
頭はまだぼんやりして、体はあちこちズキズキするけれど、生きていた。思わずホッとしたけれど。
いま、このお爺さん、とんでもないこと言わなかった!?
司祭様を呼びに……って。司祭様ってあの司祭様だよね?せっかく生きてたけど、ここで終わりか。泣ける。

「大丈夫かね、いてぇんかね……可哀想になぁ」

お爺さんは優しく気遣う声で私を見ている。ゴンゾと呼ばれたウマシカアルパカみたいな生き物も。この人たち、私のことを悪魔だと気付いてないのかしら。
不思議に思って、目線だけでどうにか自分の体を確認する。
なんと。
昨夜は露出の高いぴっちりしたボンデージみたいな格好だったのに。いまはごくシンプルなストンとした生成り色のワンピーススカートになっていて、肩にはゴワゴワした質感のショール。翼も尻尾もなくなって、ただの人間の女の子のようになっているのがわかった。

ああ、もしかして。
夜が明けると、夢魔から人間になる、そういう仕組みの体だということ?
だから突然飛べなくなって落ちたのか。
高く飛び回っていたから、翼がなくなり体がふっと落ちていく瞬間はとても怖かった。いま思い出してもやっぱり怖い。
木に引っかかってなかったらきっと死んでいただろうと思うと、より怖くなって体が震えてきた。

「おぉい、おぉい!司祭様連れて来たぞぉ」
「おお、よかった!お嬢ちゃん、もう大丈夫だ。孫が司祭様をお連れしたからなぁ。司祭様は癒しの秘術をお使いになれんだぁ」

お爺さんが、きっと私を安心させようとしてだろう、しわくちゃの顔をますますくしゃくしゃにして笑う。
けれど。どうなのだろう。姿は人間になったとはいえ、司祭ともあろう人が私の正体を見破れないなんてことあるかしら。もしバレたら。

『おのれ夢魔めぇ〜滅〜』

とか言ってあの光の刻印の手でバチィってされちゃうんじゃ?怖い……。逃げたいけど体は痛くてちっとも起きられそうになかった。

「司祭様、早く早く!」
「わ、わかって、る、……ぜぇ、はぁ、ぜぇ……こ、この娘か。大怪我で、倒れていたという、のは……」

お爺さんの孫らしき男の子にせかされてやってきた司祭様は、やっぱり昨夜のあの人で間違いなかった。
明るい日の下で見ると、その顔色はますます青白く不健康そうで、目の下の隈はもしかしたら昨夜より更に濃くなっている。
ぜえぜえと肩で息をする様子は、人を助けるより先に自分が養生するのが先じゃないの?と突っ込みたくなるような有り様だった。

司祭様が私のそばに膝をつき、切れ長の目が覗き込んでくる。やっぱり綺麗な朝焼けの空みたいな瞳の色だ。ちょっとときめいてしまう。
じっと見つめられると、全身が心臓になったみたいにドキドキした。

「名前は言えるかね、年は、どこから来たのか」

昨日の夜の司祭様とは違う、気遣うような優しい声と眼差しだ。
ドキドキが収まっていく。良かった、バレてる気配はない!
でも、名前?年?どこから来たのか?そんなのこっちが聞きたかった。誰でもいいから教えて欲しいと思う。

「あの、……っ、」

声を出してみると、昨夜の甘ったるい声とは違う、わりと落ち着いた声が出た。ああこれだ、とよくわからないけど納得する。ぼんやりとある自分のイメージしている声に近かった。

「な、なにも、覚えていないんです……ごめんなさい……」

殊勝な態度をかなり意識して言った。嘘ではなく本当のことだけれど、これを言うことで妙に疑われることは避けたくもある。
私のその言葉に、お爺さんとお孫さんと司祭様が三人顔を見合わせて、それから私の方に向いた三人分の視線がいっそう優しく労るようなものになった。優しい人たちなんだと思う。

「いや、良いのだ。そういう事もある。……傷の具合を見よう、……あぁ、ンンッ!……服をまくるが、治療のためのことゆえ、その……」
「はい、大丈夫です。お願いします……」

治療のたびにいちいちこんなモゴモゴと意識したような物言いをしているのだろうか。いかめしい強面顔のくせに、紳士を通り越してちょっとヘタレっぽい。
司祭様の手がスカートの裾をまくり、ショールを解いて胸元の紐を緩める。
腕を取られて袖をめくられ動きを確かめられていく。
司祭様の手が肌に触れると、ピリッとした妙な感覚が体を走り抜けていった。

「んっ……」
「痛かったか……?」
「ぁ、はぁ、……だ、大丈夫、です……」

触れられたところからじわりと温かいものが灯り、もっと触って欲しいと感じてしまう。心地の良い手のひらだった。
昨日はあの手のひらに滅されそうになったのに!

「ふむ……、どこも折れているということはなさそうだ。擦過傷と打撲に捻挫、これならば全治には一週間もかかるまい。……特に酷いところには癒しの光を当てておこう」

手のひらから柔らかく温かい光が放たれ、痛くて動かしたくない腕や、腫れた足首に当てられる。
温泉に浸かっている時のような温かさが体を包み込んで、全身をじわじわと苛んでいた痛みが引いていくのがわかった。
思わずホッと息を吐く。優しい手のひらがそっと私の頬に触れてきた。

「ひゃっ!?」
「お、あ、ぁあ、す、すまない。か、顔の擦り傷や打撲痕は、早めに治しておいたが良いかと……!」

女の子だから、と言外に伝わる。
あまりに優しく頬に触れられてついびっくりしてしまった。下心なんてないのはわかっているのに意識してるみたいで恥ずかしいやら居た堪れないやら。

「もう大丈夫そうですかねぇ、司祭様」

お孫さんの目を塞ぎ、どこか明後日の方をずっと見ていたらしいお爺さんがうかがうように聞いてきた。

「う、うむ。も、問題ない……、怪我の方は、だが」
「身元不明のお嬢さん、はてさて、どういたしますかねぇ」

そうだった。私の存在はかなり胡乱なものなのだ。いったいどうなるのだろう。警察みたいなところに突き出されるのかしら。一気に不安が押し寄せる。

「……何か、深い理由や事情があるのかもしれんが。ともかく、街に連れて帰ろう。……それで良いかな、お嬢さん」

手を貸して体を起こすのを手伝ってくれながら、司祭様に問われて。けれど私にはそもそも選択肢なんてあるわけもなくて。

「はい……あの、道中、いろいろ……教えてください、ますか?本当に、なにも、わからなくて……」

改めて言葉にしてみると、途端に心細さに襲われた。
本当の本当になにもわからない。自分のことも、なにもかも。
私を見つめる司祭様は、眉を寄せて困ったような憐れむような不思議な顔で微笑むと、頷いてくれた。

「もちろんだ。……迷える者を教え導くのが、私の勤めでもある」
「司祭様……」

明け染める空の色のような瞳が細められる。その眼差しに、私の中の奥深いところがきゅうと締め付けられた。

「どうか、よろしくお願い申し上げます……司祭様……」

自分でも驚くほどに、うっとりとした声だった。

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