神託の巫女-Ⅳ-

 

 エリシャはとにかく走っていた。
 いてもたってもいられず、焦る気持ちのそのままに。

 あまりにも必死な形相で駆けていくエリシャの姿に、それを見た村人たちは、何事かと首を傾げ顔を見合わせる。

「どしたんだありゃ……」
「大蛇でも出たかな?」

 呑気に笑い合う村人たちだったが、こりゃあレイクに知らせておくか、と誰ともなく言ってまた頷くのだった。

「ハンネ……!」
「え、エリシャ?どうしたの、こんな朝早くに……」

 バンと扉を押し開けてハンネの家に飛び込んだエリシャの勢いに、ちょうど朝食を終えて後片付けをしていたハンネが目を丸くした。

 その手伝いをしていたハンネの弟のユトもきょとんとしたが、すぐさま、

「なんだよぉエリシャ〜そんな怖ぁい顔してっとますますブスになんぞぉ」

 鼻の頭を押し上げて舌を出した顔でからかう。

「ユト!エリシャに酷いこと言わないで」

 ハンネがユトを嗜める。いつもならここでエリシャも軽く応戦するのだが、今はそれどころではなかった。
 肩で息をしながら、ハンネの手を取る。

「来て。大事な話があるの」
「え、エリシャ!?」

 エリシャの有無を言わさぬ迫力と勢いに、もともと気の弱いところのあるハンネが抵抗できるはずもなく、あれよあれよとそのまま連れられて行く。

 あまりの突然の一幕に、残された幼い少年ユトは、ポカンとしてそれを見送るしかできなかった。

 エリシャはハンネの手を引き、沢を辿って小走りに小道を行く。
 内心はひどく混乱していた。
 もし選ばれたのがハンネだとして、巫女の選出に抗えるものなのだろうか。

 村の小さな学校で習った女神様のことや神託のこと、その巫女のこと。どれもがエリシャには遠いよその国のことのように感じられて、今まで深く考えたこともなかった。

 大多数の人々がそうであるように、エリシャもまた、女神様と巫女様のおかげで平和なのだと教え聞かされ、なんの疑いもなく漠然とそうなんだと思いながら時々気まぐれにお祈りを捧げる程度で。

 巫女が市政の民から選ばれると知識では知っていても、実感としては程遠く、自身のすぐそばでそんなことが起こるなどとは夢にも思っていなかった。
 いまこうして身近に降って湧いた現実も、嘘なのではないかと思えてならない。

 いや、嘘であってほしいと思っている。

 子供の頃から何かあればやってきていた沢のそばの大樹のうろの前。
 エリシャはようやく足を止め、ハンネに向き直った。

「エリシャ……いったいどうしたの?聖都からの御使者様をお泊めしているんでしょ。おもてなしはしなくていいの?」

 肩で息をしながら、ハンネがエリシャを気遣い心配するように見上げている。
 薄い水色の瞳が一心にエリシャを見つめ、いつもは穏やかな顔が不安そうに曇っている。

「ハンネ……。私……」

 年下の友人の手をぎゅっと握り、しかし、エリシャは何を言えばいいのかを図りかねていた。
 まだ選ばれたのがハンネだと決まったわけではない。

 けれど、巫女に選ばれるのは概ね十五から十八までの若い娘だという。
 この村にいるその年頃の娘といえば、ハンネとエリシャしか居ないのだ。

「聞いちゃったの私。ご神託がくだったって。新しい巫女様が選ばれたって!あのご使者の一団は、次の巫女様をお迎えにあがるためにいらしたの……」
「え、……、それ、っ、て……」

 ハンネの水色の瞳が大きく見開かれ、水面に石が投げ入れられた時のように揺れる。

「ハンネは婚約したばかりじゃない。でも巫女になったら結婚できない。……みんなの、大陸の平和とか、それはもちろん大事だけど、ハンネが結婚して幸せになるのはもっと大事なことよ!」
「え、エリシャ、エリシャ、待って。待ってちょうだい。本当に私なの?私が選ばれたってそう聞いたの?エリシャだって、選ばれてもおかしくないのよ」
「ハンネ!そりゃちゃんとは聞いてないけど、でも、私が巫女様なんて柄にみえる!?巫女様って、大陸のみんなのためにお祈りし続ける心優しくて真面目な方なのよ!私に勤まるわけない。……そりゃ、私だったら、……婚約もしてないし、困ることはないけど」

 ハンネの指摘に、エリシャは戸惑った。
 自分が選ばれるなどと少しも思ってはいなかったのだ。

 ここにきてもまだ、巫女のことも女神のこともエリシャにとってはどこか他人事で、まさか自分の身に降りかかるとは思いもしていなかった。
ハンネはほっと息を吐き、落ち着いた声で尋ねる。

「ね、エリシャ、……もし、私が巫女に選ばれたら、どうするつもりだったの?」
「そんなの!バレる前に馬に乗せて、ハンネの婚約者のところに送り届けるに決まってるじゃないの。当たり前でしょ!」
「……ふふっ、あはは!そんなの、すぐ見つかっちゃうよ。エリシャったら」

 今度はハンネが、ぎゅっとエリシャの手を握る番だった。
 水色の瞳が、エリシャの榛色の瞳をじっと見上げて微笑む。

「ありがとうエリシャ。でも、私もエリシャが選ばれたらいやよ。そうなったら……ふたりで逃げてしまいましょ。ね」
「ハンネ……」

 気が弱いと思っていた友人の、意外なその物言いにエリシャは瞬く。
 もしかしたら、自分が思うよりハンネはずっと強かなのかもしれない。それとも恋が彼女を強くしたのだろうか。

ーー

 ふいに、ガサ、と茂みを掻き分ける音がした。
 反射的に、エリシャはハンネを庇うような態勢で音のした方に向く。

「うわ、なんだよそんな怖い顔で……。みんな噂してたぞ、エリシャが凄い形相でハンネ引き摺ってったって」
「レイク……なんだ、もう……びっくりさせないでよ」

 現れた幼馴染の青年の姿に、エリシャはほっと息を吐いた。
 一気に緊張が解けていく。
 ハンネも、エリシャの後ろで息を呑んだあと、ほうっと安堵したようにエリシャの手を握る力が緩んだ。
 二人のその様子にレイクは訝しむように眉を曲げ、頭を掻く。

「いったいどうしたってんだよ?」

 エリシャとハンネは、お互いの顔を見合わせる。 
 どうする?言う?と言葉にせずとも通じ合うアイコンタクトで相談し、頷き合い、意を決したようにレイクに向き直る。

 そしてエリシャは使者団から聞いたこと、選ばれるのは自分かハンネかもしれないこと、その時どうするつもりなのかをレイクに話した。

「………………うそだろ」

 しばらく言葉を失っていたレイクが、ようやく絞り出した言葉がそれだった。

「そうだといいけど」

 エリシャの本音だ。
 しかし、使者団が偽物でもない限り、この話がうそになることはおそらくないのである。

(いっそ偽の御一行様だったらいいのに。快く騙されてあげるんだけど……)

 そうだったらどんなにいいだろうか、とエリシャは思わずにはいられなかった。

「それで、どうすんだ?まさか本気でふたりで逃げようってのか?」

 レイクのその言葉は、そんなことできるわけないだろうと言外に冷酷な現実を突きつけるような声音だった。
 エリシャは思わずレイクに食ってかかりそうになる。
 その後ろで、ハンネがまた身を硬くしたのを感じた。

 強気なことを言ってくれはしたものの、ハンネは元来気が弱い。
 改めて冷静に現実的な状況を突き付けられれば、恐怖の方が先に立つのだろう。

 もし選ばれたのがハンネなら、彼女は故郷や家族のみならず、実った恋すらも諦めなければならないのだ。

「やってやるわよ!山脈を越えて国境を抜けてしまえば、きっとそう簡単には追って来れないと思うの!山の中を行くか、行商の馬車に潜り込んで隠れるか、そうだ!ハンネの恋人ならこっそり関所を通してくれるんじゃない!?」

 言ってるうちになんとかできそうな気がしてきて、エリシャの顔が明るく輝いていく。
 レイクはなおも呆れたような顔でそれを聞いて、首を振った。

「整備された街道を外れて山に入ったら、すぐに遭難するだけだろ。馬車に隠れたって荷を検められてすぐバレちまうよ。ましてやハンネの恋人にそんなことさせたら、クビじゃすまねぇかもしんないんだぞ」

 ひとつひとつ丁寧に道理を説明され、無理を通すこともできずにエリシャは口を尖らせる。

「じゃあどうしろっていうの!レイクには何かいい考えがあるっていうの!?」

 エリシャがレイクに詰め寄る。
 ハンネが宥めるようにエリシャのその手を引いた。

「拒否できるわけないだろそんなの。選ばれたなら巫女になるしかないんだよ」
「え……」

 レイクの言葉は、エリシャには、いやハンネにも思いもよらないものだった。

「レイク!?本気で言ってるの!?選ばれたのがエリシャなら、二度と会えなくなっちゃうのよ!!」

 ハンネが珍しく声を張り上げていう。
 ハンネは、いつかレイクとエリシャが結婚するのだろうと思っていたのだ。

 レイクはエリシャのことを好きなのだと。
 好きな女の子が突然目の前から居なくなってしまうかもしれないというのに、なぜそんなことが言えるのか。
 ハンネには理解できなかった。

「エリシャが巫女って柄かよ」

 レイクが軽く鼻で笑う。

「は……なにそれ。それって、じゃあレイクは、選ばれるのはどうせハンネだからいいって言いたいの!?本気で言ってるの!?ハンネは婚約したばかりで、私たちはずっと小さい頃から仲良しの大事な友達なのに!!」

 エリシャもまた、レイクの言葉に耳を疑った。
 エリシャとハンネ、どちらにとっても選ばれるのは恐ろしいことだった。
 しかしレイクにはそうではないのだ。

 幼馴染とはいえいつも同じ気持ちを共有できるわけではない、そう頭では理解していても、エリシャには納得できはしなかった。
 急にレイクが知らない赤の他人のように思える。
 ぎゅ、と下唇を噛み、レイクを睨み付けるのは一瞬。

「ハンネ、行こう」
「エリシャ?」
「エリシャ、どこ行くってんだ!いまは大人しく御使者様たちのとこに戻れ」
「いや!レイクにとっては、そりゃ、些細なことかもね!?貴方は男で、巫女に選ばれて一生ひとのために祈ることなんてないんだから……」

 エリシャはそう言い捨てると、ハンネの手を引き歩き始めた。
 レイクに言ったことは、しかし、半分は自分にも跳ね返ってくる言葉でもあった。

 今までは、どこかの誰かが巫女に選ばれ、普通の女としての人生を全て捨てて人々のために祈りを捧げてきたのだ。
 だがエリシャは、その誰かの人生について想いを馳せたことなど一度もなかった。考えたことも想像したこともない。

 それを自分自身から突き付けられるようで、心はしんしんと冷えていくばかりだった。

「エリシャ、エリシャ!待って、いますぐどこかへなんて、いくらなんでも無理よ!」

 ハンネが必死にエリシャを止める。彼女の言うこともまた尤もなことなのだ。
 なんの力も持たない田舎の村娘ふたりが、山脈を徒歩で越えることも、騎士や神官から逃げ延びることも、できるわけはなかった。

 エリシャは足を止め、途方に暮れた面持ちでハンネに振り返る。
 ハンネもまた同じような、泣き笑いの顔でエリシャを見つめていた。
 やがて、二人はどちらからともなく抱きしめあう。

「ごめんね」

 どちらからともなくそう言い合う。
 どちらが選ばれていたとしても、どちらもが大切なものを奪われ、失うことを、知ってしまったのだ。
 それをどうすることもできないのだと、わかってしまったのだ。

(あ……)

 ハンネを抱きしめて彼女のサラサラの黒い髪を撫でながら、ふいに、エリシャは思い出した。

 最近よく見ていたあの夢。
 夢の中の彼女も長い黒髪だった。
 いつも哀しげに目を伏せた美しい女性。
 彼女が何度もエリシャに向けて言っていた声にはならない言葉。
 それをいま、唐突に理解した。
 
 あの言葉は……。

(ごめんなさい……)

彼女の口の動きを思い出しながら真似てみる。

(そう、言ってたんだ……あの人……)

 エリシャの中に何かがストンと落ちてきて、全てを理解したような、妙に静かで落ち着いた心持ちになる。
 エリシャは微笑むと、もう一度年下の友人のサラサラの髪を撫でて、そっと離れた。

「しかたない、戻ろっか」
「エリシャ……?」

 エリシャの晴々とした顔に、ハンネは不思議そうに瞬いて見上げてから、つられるように淡く微笑んだ。
 レイクは少し離れたところでバツの悪そうに二人の様子を見ていたが。

「……おい、来ちまったぞ」

ーー

 下草を踏む幾つもの足音、衣擦れに、甲冑の擦れる金属音。
 使者団を率いる金髪の騎士と、不安そうないまにも泣きそうな顔をしたエリシャの両親。
 その姿を見て、ハンネがはっと息を呑むのがエリシャにも聞こえた。

「ご両親が、おそらくここだろうと教えてくださいました。……さて、……もうおわかりでしょうが、お迎えにあがりました。新しい巫女エリシャ様。どうぞ、我々と共に聖都にお越しください」

 ライセルが騎士の略式の礼と共に言う。
 エリシャは騎士の端正な顔をしっかりと見据えると、眉を下げて照れ臭そうに笑った。

「……、……、そっか。……私、早とちりしちゃった!ごめんね、ハンネ。……ありがとね」
「エリシャ……っ」

 縋りつこうと伸ばされるハンネの手を優しく振り払い、エリシャは微笑む。

「幸せになってね、ハンネ。ずっと、ハンネの幸せを祈るよ。だからきっと、ずっと、幸せでいてね」
「うぅっ!エリシャぁ……エリシャぁ……!」
「だから早く結婚しときなって……わぁ!」

 エリシャとハンネの様子に、しかし先に泣き出したのはエリシャの両親だった。
 オイオイと泣きじゃくる二人に、エリシャも面食らう。

「お父さん……お母さん……。……もう、しょうがないんだから。……ほら、そんな悲観することもないって。聖都に行けるなんてよく考えたらすごく嬉しいことじゃない?私も聖都に暮らせばも少し垢抜けて美人になるかもしれないしね。あはは!」

 明るく笑い飛ばしたエリシャは、泣きじゃくる両親。
 はらはらと涙を溢すハンネ。
 呆然としたようにそれを見ていたレイク。
 そして黙って佇み見守っていた使者団。
 それぞれを見渡して、最後にライセルに視線を定めた。

「行きます、私。……でも、お願い。家族と、友達と、ゆっくり過ごす時間は下さい。もう二度と会えなくなるのなら……」

 エリシャの静かな、しかし真っ直ぐな瞳に射抜かれて、ライセルは妙な胸騒ぎに襲われたような気がした。

 平凡に暮らすただの田舎娘が、この短い時間に随分とその雰囲気を変えてしまったように思えたのだ。
 それは、覚悟を決めたというべきなのか、運命に屈してただ諦めたのか、ライセルにはわからなかったが。

「畏まりました。どうか、最後の日を大切にお過ごし下さい。我々は、村長のお宅にでもお世話になるとしましょう」

 そう言いながら、ライセルは、この奇妙な胸騒ぎの理由を己の中に探していた。

 それは。

(花が咲く前に、そいつをむりやり手折ってしまったような……そんな罪深さに似ているな。これは……)

 華奢な娘の双肩に、大陸の平和がかかっている。
 その平和のために、ただの平凡な村娘を神秘の巫女に作り替えてしまったような。
 それは言いようのない不快感をライセルに残したのだった。


次の話へ

https://note.com/bunbukutyan/n/nb4d33a956c4c

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