手を挙げ続けること
be-京都さんでのイベントのお仲間に、組紐の実演をされているかたがおられる。むろん、組紐の作品も展示販売されている。
組紐というものが、この時代になかなかわかってもらえないらしい。かつてはテレビ番組の「必殺仕置人シリーズ」で、京本政樹さんが演じたひとの表の仕事が組紐屋だったそうだが、今ではその番組を覚えているひとも少なくなったので、説明にこまっていたそうだ。
しかし、アニメ映画の「君の名は」の大ヒットで、主人公の少女の髪を縛っていた紐だ!と注目されたこともあり、説明しやすくなったそうだ。
とはいえ、着物人口が減り、帯締めの需要が減っていくのは現実で、組紐の技術や作品をどう生かすことができるのかは、大きな課題なのだという。
でもね、とその人は言った。
「先輩の言葉なんですが、組紐を作る自分たちがここにいます!と手を挙げ続けることが大事なんですって」
手を挙げ続けることは、売れるとか売れないとかではなく、ここにいるという存在証明。その言葉は深くこころにのこった。
伝統工芸の世界は受け継がれることが大切なことであり、その自負もまた受け継がれていくものなのだと思った。
同じくbe-京都さんのイベントでお会いした80歳だという男性は、箔を施した小さな屏風を作っておられた。
聞けば日本画の下地の金箔を貼る仕事を長年されていた。引退後、屏風作りを始められたという。
なんにもせんといたら、自分のこの手がなんかしたがっとったんですわ。自分限りの仕事で跡を継ぐもんもおらんから、これまでの材料あるさかいに、それをつこて、こんなもん、つくってますねん。
韜晦しながら語られた言葉もまた、心に残った。
手がなにかをしたがっている。ボケ防止なんて言いながら、プロの技は冴える。
色紙を裁断し、膠を塗り、緞子を貼り、また膠を重ね塗りし、プラチナの箔を張り、これを擦り削り落とす。そんな工程を経て、屏風は出来上がる。
裏面は金箔が貼られてあり、両面を使うことができる。この屏風はいまうちの玄関にある。
ここにも、伝統工芸の手がある。
何年か前、韓国の南大門が焼失し、その再建にあたって、かの国では自然顔料がなかったという。中国や日本から輸入したが、膠がうまく使われなかったのか、化学顔料を足したからなのか、完成数年後にえがかれたものが剥落した。
そこで失われたもの、絶えてしまったもの、つなげられなかったものを思う。
先日、清水三年坂美術館でみた、超絶技巧の伝統工芸品を思い出す。
京薩摩焼の窯元が世界恐慌時代の不景気のあおりで、立ち行かなくなって、京薩摩焼は姿を消した。
時代が変われば文化も変わる。それはそれで仕方のないことかもしれないが、先人が生み出した素晴らしい技が、徒花のように消えてしまうのは、あまりに切ない。
博物館にしかないものではなく、今を生きる人間の手に、時代を超えて技が繋がっていくことは、容易ではないかもしれないが、意味深く、美しいことのように思う。門外漢のつぶやきでしかないのだが……。
ひるがえって、不遜承知で、これらを、文袋に落とし込むなら、売れるとか売れない、ではなく、自分がここにいるよ、と手を挙げ続けるという姿勢なのだろうと思う。
伝統工芸とは無縁の話なのだが、あたしは文袋を作っています、とてを挙げ続けること。それでいいかな。それが落ち込んでる底を蹴ることになるかなあ。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️