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芥子の実

さて、芥子の実は、どこにあるのでしょう。

不器用な自分の言い訳を読んで、苦笑する。

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金平糖の真ん中にあるのは芥子の実だ。そいつをころころ転がして砂糖をまとわせてあんなふうなとんがりをこしらえる。時間をかけて甘い菓子になる。

たぶん、核になる芥子の実がなければ、そんなふうにはならないんだろうな。それは、当たり前に見えてなんかすげえなと思うことのひとつだ。


ずっと文章を書く頻度が減っていて、これはいかんな、と思っている。いや、何も書いていないわけではない。おりにふれ、感じたことを書いたものはネットのあちこちに散らばってある。

でもそれはいろんな店のポイントカードのようなもので、まとめなければ意味のない文章のカケラでしかない。

自分が文袋を作り始めて、それはもう熱心で、なにしろ売るほど作っていて、自分の作文に振り分ける時間が少なくなってきた。

文袋屋をやるっていうのは、素材集め、自分なりの意匠思案から、製作、そこから販売に至るまでのことをひとりでするわけで、それをこの不器用であたまのめぐりの悪いあたしかやってるわけで、あらゆることの試行錯誤の時間を含めて、なんだか忙しいのだ。

それ以上に実感するのは、頭の構造が変わってくことだ。作文頭から文袋頭へ変わってる。

直感に頼る素材の組み合わせから、ああしてこうして、あれしてこれしてと手を動かして、うそみたいだけど、まるで働き者のように、頭がすべて段取りと手順で回っている。

物理的な時間配分からも、精神世界からも、作文は遠景に遠ざかる。書かない時間が増えて、インターバルが長くなる。

そう、忘れぬようにと書き留めることと、作文書いてやる!という攻撃的な思いで書くものは、意味がちがう。世界を構築する小説なんぞは、いよいよちがう。

「文の文」に書くものはどちらかというと、文章に仕立て上げると目論んで書いてきたつもりだ。読み手にどう伝わるかを踏まえて、自分なりのおとしまえをどうつけるかまでを思案して組み立てていく。

文袋頭になるとそういう言葉の構築がうまくいかない。練り上げることが苦痛になる。

文袋はとりあえず手を動かせば目の前で出来上がっていく。単純な動線だ。それに慣れてしまったのかもしれない。

作文は遠回りしたほうがおもしろいのに、近道ばかり歩いてしまう。なんかものすごい阿呆になってしまったような気さえしてしまう。

ネットにあげる作文に、なにもそんなにムキになって書かんでも、と苦笑したくなるのだが、たぶん、自分の書いたものに自分が失望してしまうのが、すごくいやなんだろうな。

とにもかくにも、自分にとって作文を書くってことは自分の背骨の何番目かなんだって思ってたわけで、ま、それしか取り得がないと思ってたりもしたわけだ。

それが自分の背骨には文袋もあるんだと思えたら
なんかふっと気持ちが楽にもなったりした。作文って自分を追い詰めるとこがあって、しんどくもなる。

今、「じゃ、作文書くの、どうするの」と聞かれたら、なんて答えよう、と思案して、冒頭の芥子の実が浮んだ。作文には芥子の実が必要なんだと思うわけだ。

感動とか感激とか、悲しみやせつなさ、わくわくやどきどきみたいなものに心が躍り震える、そんな瞬間が芥子の実なんだ。

芥子の実、めっけたら、ガンガン書くよ。
いっぱい書くよ。たぶん。

という長い言い訳。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️