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文の文 1

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文というハンドルネーム、さわむら蛍というペンネームで書いていた作文をブラッシュアップしてまとめています。
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2019年4月の記事一覧

家路

家路

コンビニ横の坂を行くと、前を男性が歩いていた。ずんぐりとした背広姿。 薄くなった頭。 シルエットになったスボンの裾が妙に短い。

その足が一瞬、横にぶれる。 ああ、千鳥足だなと気付く。左手にビールのロング缶がある。 あれはアサヒスーパードライだ。 その銀色が街灯の光を反射する。

立ち止まって、そいつをくくくくと飲み干し ふぃーと息をつく。 そしてまた歩きだす。

その足取りは真っ直ぐいかな

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深み

深み

自分には深みがないのではないか、と思い知らされるときがある。

物事を素直に額面どおり受け取る。目の前のひとが口にしている言葉は、 そのままそのひとの思いなのだろうと思う。 だって、そう言ってるんだからそうなんじゃないの?って 他人の言葉の裏を読もうとしない。 のほほんとしたものだ。

が、おとなの現実は、時に言葉の裂け目のようなものをさらしてくる。言葉と行動が裏腹だったりする現場に遭遇すると、

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不幸

不幸

乳がんで乳房を切り取った友人が形成手術で再建するのだという。同じ病気で同じように乳房を失ったMさんは再建しない。再建してしまうと発見が遅れる。再発率の高い病気で、それは命取りになるからだ。

再建をする友人の年齢は77歳である。どうして再建にこだわるのかと聞いてみるとこんな言葉がかえってきた。

「いずれ私は病院で死ぬことになるでしょう。
死んだら看護婦さんが湯灌してくれるわけでしょ。若い看護婦さ

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葉山の海で

葉山の海で

Mさんが「海を見たい」と言った。あたしは「おいしいお魚を食べよう」と答えた。二人で京浜急行に乗った。

海沿いのレストランの大きな一枚ガラスが、凪いだ海を風景画のように切り取って見せる。午後の日差しが金色に染めた水面を、漁船が影絵のようになって進む。

「きれいね」とMさんが呟く。「うん」と答える。言葉が続かない。すうっと時間が流れる。

運ばれたきた魚料理を切り分けながら「一番心配なことは夫のこ

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花柄のキルト

花柄のキルト

Mさんの乳ガンは早期発見ではなかったので、抗ガン剤で小さくしてからの手術だった。彼女は親友というよりは姉にちかい存在だから、衝撃が大きかった。途方にくれた。
 
あたしが入院したあの猛烈に暑かった夏の日に、遠路訪ねてきて、あたしの身体を拭いてくれた。手術中に流れた血がべっとりとついた髪を泣きながら拭いてくれた。退院してからは毎日のように電話をくれた。ただ、あたしを笑わせるために。
 
元気になった

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尻を叩く

尻を叩く

「あなただから言うけど、世界中のひとがわたしのことを嫌いになったんじゃないかしらって思ってたの」

Mさんが受話器の向こう側でおもいがけない言葉を口にした。

朝からなんとなく心がさわいで、しきりと彼女に電話しなくては、という思いがわいていたのは、これだったのかとこっそり納得する。
 
三期の乳がんと戦い、生還してきた彼女が、やっと抗がん剤の投与が終わった今になって、生きくれている。
 
生きるか

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遠足

遠足

男前に会いに行こうと思った。与謝野晶子が「美男におわす」と詠んだ大仏にである。朝の家事もそこそこにして、鎌倉に向かった。
 
目を閉じると、二、三日前から心にからみついて離れない鬱々とした気分がまた立ち上ってくる。たったひとつの言葉が心に突き刺さったまま痛み続けている。この思いを捨てたくて、電車に乗った。

平日の午前中、大船へ向かう電車はゆったりと空いていてだんだんとのどかになっていく眺めのなか

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傷跡

傷跡

顎先に人差し指を当ててそのまま下へおろしてみる。喉仏を越えてすぐのところ、鎖骨の間の少し上に違和感がある。指先にかすかな盛りあがりを感じる。

鏡で見てみると横一文字に2センチ、その上下に点々と 光沢のあるピンク色をした傷跡がある。顎の手術の時に施された気管切開の跡が 今でもくっきりと残っている。 どうやらケロイドになりやすい体質らしい。
 
こんなに時間がたっているのに、やはり無意識に思い出

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おお、こわいこと。

おお、こわいこと。

病院の洗面所でのことだ。三つ並んだ大きな鏡の前に立つと、横に小柄な初老の女性が並んだ。明る過ぎるしろっぽい光のなかで互いの風貌がさらけ出される。

あたしの前の鏡には片頬の中年の女の顔があった。同様に横目で見た鏡の中のその女性の生真面目そうな顔には、容赦のないシミが多数浮き出ていた。目尻に刻まれたシワもクッキリと見える。長く生きてきたあかしがそこにあった。

昔風のちりちりしたパーマに縁取られた顔

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宣言

宣言

通っているカルチャーのテーブルの空いている席に腰を下ろし、昼食をとろうと思った。隣には自家製のお弁当をひろげているおばさんがいた。

くすんだ黄色のサマーセーターが目の端にあった。一瞬の印象だが、小太りで、そう垢抜けてはおらず、いかにも世話好きという感じがした。

おばさんは待ちきれない様子で、なんの前置きもなく「あらあ、どうしたの、そのほっぺ!」と、さも心配をしているという顔をして問いかけてきた

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Vサイン

Vサイン

家族の付き添いではじめて行った医院の女医さんが、あたしの顔のテーピングを見て軽く訊ねた。

「どうなさいました?」

少し鼻にかかったような柔かい声だった。

「MFHで顎の関節をとりました」といつものひとくだりを説明する。いいながら相手の表情を窺う。

ふっくらした女医さんのいつも笑っているような柔和な目が一瞬おおきく見開くのがわかった。あたしはそれ以上相手を困らせないように笑顔でフォローしつつ

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わかいのか?

わかいのか?

耳鼻咽喉科の医師が耳の治療をしながら「左あごを形成されるつもりはないんですか?」と聞く。「ええ」と答える。

「どうしてもバランスがわるくなりますから、反対側に負担がかかって、いろいろ不具合がでてくるんですよ。それでも、しませんか?」と続く問いにも「ええ」と答える。

「そうですか。まだわかいのに」

その言葉は、目の中に入り込んだ異物のようで、ごろごろとして居心地が悪い。

あたしはほんとうにま

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何がしたい?

何がしたい?

いつだったかのテレビの旅番組で火野正平さんが歯の神様に奥歯が生えてきますように、とお願いしていた。

いやいや、もう二度と永久に生えて来ないから永久歯って言うんだろうに。

ひとの身体はどこもみんなそうだ。左顎の関節を切り取ったときに思い知ったことだった。いくら願っても永久に生えてこない。

先日、ガンの手術をした年下のお仲間さんがやはり大切な部位を切り取っていた。失われた機能も少なくはない。

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