東京消費 #11 食「サラダ」sandz
思えば、ひとり暮らしで働きながら自炊をする生活もずいぶん長くなった。僕は、単身世帯にしては毎日しっかり食事を準備するタイプだと思う。
とはいえ、勤めの仕事なので調理において〝時短〟はとても大切。そんな僕にとっての主力の副菜はリーフサラダである。なるべく休みの日に伊勢丹新宿店のデパ地下でリーフレタスミックスをまとめて購入し、数日分をストックしている。
僕にとってのリーフサラダの利点はおもに2つ。1つは彩りの良さで、もう1つは味の複雑さだ。リーフレタスミックスのお気に入りのブランドは「コスモファーム」ーー。伊勢丹が契約している香川県高松市の農場から直送されるブランドで、エディブル・フラワー(食べられる花)が添えられている分、さらに彩が良くなる。味の複雑さを足したいときには、サラダスピナッチやルッコラ、アボガドなどを加える。
生野菜をストックするためには〝水分〟に注意しなければならない。リーフサラダは乾燥に弱い一方で、濡れたまま置いておくとすぐに傷んでしまう。使えるのはサラダスピナーだ。食べやすいサイズに手で千切って、水にさらし、そのあとにサラダスピナーで一気に余分な水気を切る。これだけしておけば、数日間は鮮度の良いリーフレタスを食べられる。
こうして日常的にリーフサラダを食べるのだけど、ときどき生野菜のシャキシャキとした食感が、ある記憶の扉をゆっくりと開ける。記憶と言っても、それは思い出すたびに可笑しいような、申し訳ないような、なんとも言えない気持ちになる断片的な記憶だ。
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その女性と知り合ったのは、8年ほど前。いつものように伊勢丹新宿店の生鮮コーナーを物色しているときのことだった。僕が葉野菜を見ているときに、彼女は突然話しかけてきた。
「今日のリーフレタスはおすすめじゃないの」
振り向くと、そこには小柄な中年女性が立っていた。服装を見る限り、店員であることは一目瞭然だった。髪はウェーブがかかったショートカット。真っ赤な口紅と僕に対して何かを期待しているような目の輝き印象的だった。
いつからか、僕は自分に向けられる女性からの好意的な視線に敏感になっていた。身長が185センチあり、自分で言うのもなんだが器量も悪いほうではないし、清潔感もあるほうだ。そうとなると、わりに頻繁に女性から好意的な視線を向けられる。
仮に僕が女性を性愛の対象としていたら、それは恵まれた話というか、嬉しい悩みだったはずだ。しかし、僕の性愛の対象は、物心ついた頃からずっと男性。したがって、女性から好意的な視線を向けられるたびに、そこにはいわゆるミスマッチが生じてしまうわけだ。
仲良くしてしまうと余計な期待を抱かせてしまうのではないか。かと言って不誠実に振る舞うのも申し訳ない。女性から好意を向けられるたびに、僕の中ではそんな葛藤が繰り広げられる。
結局、その女性の脳裏に僕のことはしっかりとインプットされ、伊勢丹新宿店の生鮮コーナーに行くたびに会話をする仲になった。「いまの季節はキウイが美味しいのよ」「今日は何を買いにいらしたの?」ーー。
彼女はとても優秀な販売員で、会話のなかでは豊富な知識が泉のように湧き出てくる。僕が野菜や果物の鮮度の見分け方などを質問すると、いつも的確に答えてくれるのだ。参考になる商品が売り場にあるときには、わざわざ鮮度の良いものと悪いものを並べて教えてくれたこともある。
僕が伊勢丹新宿店を贔屓にするようになったのは、彼女の存在が大きい。食へのこだわりだけで言えば、僕と彼女の価値観は間違いなく合う。あるいは、食卓をともにすれば互いに満足度は高いかもしれない。
「コスモファーム」を勧めてくれたのはその彼女だった。僕にとってのサラダの基準は、かつて銀座のイタリアンで食べた「15種類のハーブサラダ」だった。彼女に勧められるがままに買ったリーフレタスミックスは、僕の基準をクリアした。かくして、僕は「コスモファーム」のリーフサラダを食べ続けているのだ。
つい先日には、念願のペッパーミルを購入した。サラダには挽きたてのペッパーが欠かせない。前々から大好きな紫のミルを探していて、とうとうプジョーにお目当てのカラーがあることを知り、すぐさまネットで注文したのだ。
単身世帯の30代男性が、わざわざ休みの日に百貨店に出かけて、遠く離れた香川県の農家がつくったリーフレタスミックスを買う。文字にすると変わり者のように思われるかもしれないけれど、こうした消費行動は実に東京的だと思う。そして、僕はそんな東京での消費がとても楽しい。
気がかりなのはあの女性店員の僕に対する好意の真意。ジェンダーに関係なく好いてくれているのなら僕もひと安心だし、それはとても嬉しいことだけれど、異性に対する好意だとすれば、僕としてはただただ申し訳ない限りだ。
写真:Yoko Mizushima
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