首都の品格《②大阪の精神》

『主人の道徳は自己自身の勝ち誇った肯定から生まれる。能動的な諸力においては、肯定が最初であり、否定は一つの結果にすぎない。すなわち享受をいっそう増大させるものとしての、一つの帰結以外のものではけっしてない。』
                                 ドゥルーズ『ニーチェ』

「自分たちは力を持っている、享受を生み出す力、創造し、工夫する力を」。このように、自分を肯定することができれば、おのずとその大切な自分のために向上心を持とうという意欲が湧いてくる。ニーチェのいう「主人」とは、自分自身を愛することから出発し、そこから生への執念をたぎらせる「強い者」にほかならない――

 大阪の精神とは何か。それは、河内の茨田連衫子に象徴されるように、お上の権威にただ盲目的に従うのではなく、「自分たちは力を持っている」という自己肯定的な感情から発し、生への意欲に満ちた自主・自立の精神にほかならない。
 大阪における自治の歴史は非常に長い。すでに中世の石山本願寺の時代から認められていた町人による自治は、豊臣家の城下町の時代を経て、近世の商都の時代に全面的に開花する。道頓堀の開墾を初めとして、大阪は住民の能動的な力によって街を作ってきた。この自主・自立の精神こそが大阪の中心に位置づけられる大切なエートスに他ならない。この意味において、大阪の精神を象徴的に表象する存在として懐徳堂があげられる。
 懐徳堂は享保9(1724)年に大阪の富裕層によって創設・運営された学問所・教育機関である。明治2(1869)年、幕末から明治維新にかけての混乱によって閉鎖を余儀なくされるまで約150年近くにわたって、特定の学説にとらわれない自由で批判精神に満ちた学風を形成し、独創的で先見的な理論を生み出した。特に、五井蘭州が朱子学によって形成した学問的基盤を引き継いだ中井竹山・履軒兄弟が活躍した寛政期には我が国随一の学問所と評される豊かな成果をあげた。この懐徳堂の存在そのものが大阪的な自主・自立の精神を表象している。官許ではあるが、基本的な運営は町人による。学内では学生相互の自律・自助が重んじられた。
 一方、高級住宅地として有名な芦屋の六麓荘という町がある。この芦屋は元来大阪の富裕層の別宅として作られた地域である。そして、六麓荘の町は道路一本まで自分たちで作った町である。だから、道路は自分たちのものと思っている。道路だけではない。町全体が自分たちの作った自分たちのものと思っている。このように、大阪にはお上に頼るという依存の精神ではなく、自分たちの町は自分たちで作るのだという自主・自立の精神が脈々と流れている。この自己肯定的な感情こそ、大阪の精神の真髄といえるだろう。

 ところで、明治維新の立役者の一人である大久保利通は当初、新生日本の首都を大坂に置こうと考えていた。彼が作成した『大坂遷都建白書』の主な概要は次のとおりである。

「遷都之地は浪華に如くべからず。暫く行在を被定、治乱の体を一途に居へ、大に為す事有べし。外国交際の道、富国強兵の術、攻守大権を取り海陸軍を起す等の事に於て地形適当なるべし。尚其局々の論あるべければ贅せず
右内国事務の大根本にして、今日寸刻も置くべからざる急務と奉存候、此儀行れて内政の軸立ち、百目の基本始て挙るべし」

訳:大坂以外に都を遷すにふさわしい場所はありません。暫くは大坂に天皇の仮の宿舎を定められ、現在の混乱をしずめることを最大の課題として、大いにやらねばならないことがあるはずです。外国とのつきあいや、国を豊かにし、兵力を増強していくうえで、また、天皇が軍事の最高責任者としてあらたに海軍や陸軍を創設するうえでも、大坂の地形は最適であります。それ以外にも、遷都の地として大坂がふさわしいという理由はいろいろありますが、ここでは多くは語らないでおきます。
 以上のことは国内政治の大根本であり、すぐにでも取り掛からなければならない急務と思われます。これらのことを実行されてこそ、国内政治の中心が確立し、あらゆることの基本が成り立つに違いありません。         

        大久保利通『大坂遷都建白書』

 「遷都之地は浪華に如くべからず」とまで断言しているように、大久保には大阪の地にこだわるべき明確な根拠があった。彼は、「政府財政の確立」「富国強兵政策の実施」「対外和親政策の推進」「戊辰戦争での主導権確保」等、新政府が直面している諸課題を克服していく上で、地形的条件に恵まれ、自主・自立の精神に富む大阪こそが新生日本の遷都先として最適だと考えていた節がある。

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